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オリンピック開催


7月21日にオリンピックが始まった。日本としては1964年の第18回以来2回目となる。1964年のオリンピックは、アジアで初めてで、第二次世界大戦後の日本の復興の象徴だったが、開催前は開催賛成の人は3%しかなかった。多くの日本人は、生活がこんなに大変なのに無駄なお金を使う必要はないと考えていた。しかし、オリンピックが終わると、100%の人が開催してよかったと答えている。

最初の東京オリンピックの時も、実は世界でのコレラの蔓延が報じられ、国内でも組織委員会が大会に係る職員などに予防接種を打つなどしたが、大会が始まってからもコレラ患者が見つかったりしていた。その後のオリンピックでもエイズや、近いところではリオでのジカ熱の蔓延でゴルフの松山選手が出場を辞退したことを思い出す。つまり、世界中の国を相手にするオリンピックのような競技は常に感染との戦いになる可能性が高いということだ。これからはサッカーやラグビーのワールドカップもオリンピックと同様の処遇を受けることになる。

1回目の東京オリンピックの開催が決まった後、東京都がしたことには次のようなことがある。まず首都高の建設、5年間で作らないといけないということで、時間のかかる用地買収を避けて、その時あった道路の上、川の上、又は川を埋め立てて作られた。次に新幹線、そして当時東京砂漠といわれ、常に水不足だった東京に大きな川から水を引いてくる工事にも着手した。また当時東京は世界で一番きたない都市と言われており、都民は平気で道路、川へごみを捨てていた。そこで毎月10日に全都民で掃除をして町をきれいにするようにした。現在の世界で一番清潔と言われる東京は、この東京オリンピックを開催することで基礎が作られたのだ。

そういう混乱の中でオリンピックが開催された。この開会式を見て、当時オリンピックの開催に批判的だった石川達三は次のように言っている「開会式は金のかかったセレモニーだ。この日のために参加各国はどれほどの犠牲を払ったことだろう。聖火を東京に運ぶだけでも、何万という人が苦心し、努力をしたはずだ。しかし、ここに94か国の選手、6千人がつどっている。これが国と国との親睦と理解を進めるものであるならば、何と安いことだろう。まことに喜ぶべき犠牲ではないだろうか」彼は現実のオリンピックに触れ、考えを変えた。今回は205ケ国、1万1千人程度の選手が参加予定だ。参加する海外の選手にとって、すごく楽しくないオリンピックになり、日本へのイメージが悪くならないことを切に望んでいる。

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ジェフ・ベゾス2


私は過去参加した講演会で薦められた本を20年以上アマゾンで購入してきたが、一番びっくりしたのは、新刊と同時に古本が新刊より激安で売られはじめたことだ。これについてはアマゾン内部でも相当に話し合われたらしいが、ベゾスの決定で実施された。顧客という視点での究極の一つの形であり、これにより多くの信頼を得られたと思われる。

また本を選ぶと、その本を選んだ他の購入者がどういうものを他に購入していたかという案内がでる。これも利用することが多い。つまり消費者にとっての便利さを徹底して追及しているのがアマゾンなのだ。

丁度この文章を書いているときにベゾスが7月5日付けでアマゾンのCEOを退任し、7月20日に宇宙船で宇宙旅行に行くと発表された。実はベゾスの子供の頃からの夢は宇宙で、ベゾスはそのための資金をねん出するためにアマゾンを作ったともいわれている。アマゾンの急成長とは別にひっそりとブルーオリジンという宇宙への輸送費用の低減と宇宙飛行の安全性を高めることを目的とした航空宇宙企業を作ってきたのだ。

日本でもホリエモンの宇宙ビジネスやゾゾタウンの創業者前澤友作が今年の12月に宇宙旅行をする予定など宇宙への関心が強くなってきている。考えてみれば宇宙は人類最後のフロンティアであり、人類の未来がかかっているかもしれない。ベゾスは宇宙に人間が住む街を作りたいようだが、そうなると人類の他の星への移住という新しいステージが広がることになる。人類の新大航海時代が始まるのだ。

このように夢のある宇宙ビジネスに対しては当然にイーロンマスクもスペースXという企業を作り参戦している。マスクは今年の5月に民間で初めて国際宇宙ステーションへの有人飛行を実現させた。また2030年までに火星に基地を開設すると表明している。世界の金持ちトップ2は、まるで地球が丸いと知られていない大航海時代のように個人の巨額の資金をつぎ込みながら、宇宙の新しい景色、資源などを地球にもたらしそうだ。人間はあらゆるものに知的興味を持ち、危ないといわれることに挑戦してきた。日本の国に蔓延する安定志向と違い、世界は未来へ挑戦している。将来の日本はどうなるのか本当に心配だ。安定した貧しい国にならないようにして欲しい。

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ジェフ・ベゾス


今の世界一の金持ちは、3年連続でアマゾンの創業者のジェフ・べゾスである。それも初めて資産が2000億ドル(つまり20兆円超)を超した金持ちらしい。時代によって世界一の金持ちは変わるが、それは時代の反映である。2017年までは24年間マイクロソフトのビルゲイツであった。この変化は、これまでウインドウズのようなOS(オペレーションシステム)が新しい社会のインフラになっていたが、今はネットを通じた商品の購入と宅配が社会のインフラになったということだ。この2000億ドルという数字は、世界の国家予算の規模で18番目のスイスと同程度だ。ジェフ・ベゾスとビルゲイツの個人資産を足すと、隣国の韓国の国家予算をうわまわってしまう。個人の資産が国家を超える。こういう時代になったのである。

ビルゲイツを抜いて1位となったジェフ・ベゾスは母がまだ17歳の高校生の時に生まれた。その後離婚したが、ベゾスがまだ4歳の時に母親がキューバ移民と再婚し、ベゾスは養子となる。アップルの創業者スティーブ・ジョブスやアメリカ大統領のビル・クリントン、マリリンモンロー、そしてジョン・レノン、ベーブ・ルース、南アフリカの初代大統領ネルソン・マンデラも養子である。これを考えると人間に起こる様々な一見負のように見える出来事が子供の人間性を成長させているのかも知れない。

アマゾンという会社は不思議な会社である。ネットという武器を上手につかって成長してきたが、最初はネット書店だった。それは本なら実際に本屋に行って買おうが、ネットで買おうが商品のクオリティは一緒だから便利なネットで購入してくれるだろうというのが理由である。それから徐々に取扱商品を増やしていったが、長い間売り上げは急増していくが、常に巨額の赤字であった。それなのに3年で上場もしているし、その後の株価も上昇している。

しかし、御多分にもれず、アマゾンにも大きな危機は何度も訪れている。一つはスリアという若いアナリストが、繰り返しアマゾンは潰れると発表したことだ。彼とベゾスは長い間戦っていくことになるが、最終的にはベゾスが勝利した。その理由はいろいろ考えられると思うが、一つにはベゾスは常に起こる課題を解決できる優秀な人材を常にどん欲に求めたこと。もう一つがEC市場である。新しい社会に必要なもの、そういう事業をネットを通じて作るということである。また、かれがよく言う好きな言葉として「果敢に攻める」という言葉があるが、本当に果敢に攻め続けたことが大きいとも考えられる。

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大谷翔平の活躍


今年の野球は大リーグエンジェルスの大谷翔平の話題で持ちきりだ。大谷翔平にはこれまでと違った多くの点が存在する。つまりこれまでの常識を彼は実力と人の運で壊しているのだ。
 
まず打者としてだが、落合元監督によると、大谷の今のアッパースイングは日本では最初にコーチから指導されるところだそうだ。しかし、現実に大谷は6月26日の時点で本塁打数はゴジラ松井を抜き前半戦で過去日本人一位の24本だ。また現時点、大リーグでの本塁打数はトップに1本差の2位でもある。長打率は断トツの1位だ。落合氏は彼の体が大きくなり、筋力も上がっている。普通の人ではできないことも彼はできるといっている。つまり人により打つ理論も異なるということだが、日本人のコーチは自分の体力、経験で指導する。従って才能のある人ほどコーチの指導を受けて才能をつぶしていく。思いだされるのはイチローだ。彼も独自な打ち方で指導を受けていたが、指導を聞かなかったので最初は出場できなかった。それが仰木監督に出番を与えられて開花したのだ。大リーグへの挑戦を後押ししてくれたのも監督だ。

投手としては、まず投手と打者の二刀流はだめというのがこれまでの考え方で、テレビで張本氏がいろいろ言って炎上しているが、それはそれで話の種としてはおもしろい。投手の例としては当然に野茂英雄投手だろう。変則的な投げ方で、あれではアメリカでは通用しないなどと日本でさんざん言われていたが大リーグで通算123勝をあげた。考えてみると、大リーグから選ばれているという事実に、大リーグの経験のない日本の評論家があれこれいうのは理屈に合わない。

大リーグの野球放送を日本でも見ることができるようになってからわかるが、大リーグの選手の変則・個性は日本球界の比ではない。もうぼつぼつ日本でも野球に限らず、仕事においても、もっと個性を認める方向性を認めてもよいのではないのかと思う。画一性、前例主義、こういうことをやっていたら、当然に日本にユニコーン企業が生まれるはずはない。ユニコーン企業を生むのは、ユニコーン経営者とそれを支援するユニコーン支援企業・支援人がいるからである。大谷選手のように投手と打者両方で一流になるという前例を破る野球界のユニコーンが生まれた土壌は、それを支援してきた日本ハムの栗山監督やエンゼルスのジョー・マドン監督などユニコーン支援人に恵まれているからだ。それは彼の人柄ととびぬけた才能のもたらしたものかもしれない。彼は常識にとらわれず自分の可能性に挑戦している。素晴らしいことだ。

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世代の変化


私は世代の考え方の変化による差異に注視している。なぜなら世代のバックボーンには好むと好まざるとに関わらず、その人が生きた時代の状況が反映しているからである。私の父は優秀であった。満州の建国大学という当時の日本、中国、韓国の英才を集めて教育していた大学の卒業生であった。その父親がいつもいう口癖は「露助は信用できない」であった。つまりロシア人は信用できないということと、もう一つが家を建てる時に、家については自分の寝るスペースがあればよいというものであった。それらの背景には、父親が満州からの引揚者であったということがある。

戦争末期、ソ連が日ソ不可侵条約をおかして満州に攻め込んできた。その後はロシア人の兵士が最初は酒、次は金目の物、そして女と叫びながらずかずか家に入ってきたと自伝に記している。また、満州にあった大きな家が、日本が負けたことにより無くなってしまった。それらの強烈な体験により、私がもう時代が変わったよといくらいってもスタイルを変えることはなかった。日本に帰ってからの生き方も戦争で失われた青春を後で取り戻そうとするような生き方であった。それを子供があれこれ言っても変わるものではない。同様に、今の若い人のことを老人があれこれ言う必要はない。世代間の差は受け入れる以外に方法がないのである。

世界中で今の方が昔より幸福と考える若者が増えているらしい。従って彼らはかなり保守化している。彼らは今の幸福がこのまま続けばよいのだ。今の高齢者世代は敗戦で焼け野原になったところから男は仕事、女は家庭と切り分け、一生懸命働き、テレビ、冷蔵庫、エアコンと家具を増やしてきた。その世代から見るとフリーターは理解できない。一方で今のフリーターの生活は江戸時代の将軍よりも良いともいわれる。自由だし、平穏に暮らせて幸福なのだ。考えてみると、現代はどんな人でも、家に必要な家電がない人は少ないし、また外食産業やコンビニの発達により料理の必要もない。スマホも皆持っている。

以前テレビで人の役に立たない人生を送りたいという話を聞いてびっくりしたことがある。私にとって人生は如何にして人の役に立ちながら自分の好きなこともやるのかというのが前提だったからだ。一見非効率であり、合理的でない部分もありながら、個人の幸福感が高くなることを選ぶ若者も多い。その証拠に奇跡や占いなどを信じる若者の割合がかなり増えているらしい。いつの時代も世代間の考え方の差があるのは当然だとまず認識し、次代を担う若者に期待したい。

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公平性とは何か


ワクチンをめぐってのドタバタから少し気になることがあった。それは、「公平」とは何かということだ。例えば一国の総理大臣がワクチンを打つのに、アメリカに行ってバイデン氏に会うために必要だったと言っている。人間の価値は平等だが、人の置かれた役割で、その人がもしコロナにかかって死亡若しくは長期にわたり隔離をされると、社会に大きな影響を与える人は優先して打つのは当たり前のような気がする。現に医療従事者に優先摂取するのは、患者に接するという面もあるが、彼らがかかると社会に大きな影響があるからだ。そういう面ではこの世の中の日常生活を送るために必要なエッセンシャルワーカーも医療従事者と同じだ。

日本における公平は言葉だけが独り歩きをして目的が失われているように思われる。何の目的を達成するため「公平性」ということを重視するのかということだ。今回も予約をして来なかった人のワクチンを捨てる事件が多発した。公平性からみて予約している人以外に摂取するのはだめだということらしいが、普通に考えればワクチンはコロナ克服の最も重要なツールで、余れば捨てるより誰にでも摂取したほうがよいと思うのだが、余分なことはせずに捨てたということらしい。指示がなければ上に聞けばよいと思うのだが、目的を意識しない判断は対処を間違える。

公平性とは、すべてのものを同じように扱うという意味だが、そのとらえ方に注意が必要だ。まず、完璧に公平な摂取ということはありえないということだ。例えば高齢者ということで65歳から早期摂取できるが、64歳の人はどう考えるのだろうか?65歳は国の制度上の高齢者でしかない。ネットで予約を取らせることは、チャンスを同様に与えるから公平だというが、ネットを使える人、使えない人、ネット出来るその時間に仕事をしている人、フリーな人、病気で寝ている人、個人の状況はあたり前のことだが、皆違う。目的から考えれば市町村が日時と場所を指定すればよいし、それと別に自由に摂取できる状況を作ればよいのだ。何日か遅れるということは全く問題ではない。問題は国全体としての摂取の促進なのだ。
 
また一番の不公平は公務員、年金生活者などコロナで収入が減少していない人と、影響を直接受けている飲食店、宿泊業界、アルバイトなどに係る人の差だ。一方は収入が減らない。一方はいつつぶれるか、いつまで食べていけるか、学業を続けられるかなど大変な状況にある。早く資金を出して助ける必要がある。本人の置かれた状況による差、これこそが最大の不公平なのだ。

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ジャック・アタリの未来予測


ジャック・アタリというフランスの経済学者の2030年の未来予測を読んだ。そもそも未来は予測したことでそれに対応しようと変化が起こり、予測と違う結果となることが多い。しかし、予測に適切に対応しないと予測に近い結果を招くことになる。

いい例が、人口である。日本の人口というものは、移民の受け入れという手段を採用しなければ出生率の低下により確実に減少することはわかっている。ここからが未来の予測への対応になるが、1993年1.73という出生率に陥ったフランスは、シラク三原則という少子化対応をした。これは、

① 女性が産みたいときに産めばよい。男性の意見を聞く必要はない。しかし、女性が産みたい時期と、女性の経済力は必ずしも一致しないので、その差は税金で埋める。つまり女性が何人子供を産んでも、そのことで貧しくなることはないと保障した。

② お母さんも働くことが前提なので、赤ちゃんを預けられる場所を用意する。そして、育児休業給付金の支給を1年目はほぼ100%とした。そうすると、「もらえる金額が同じなら、1年目だけは赤ちゃんと一緒にいようという気持ちになって、0歳児を保育する必要がなくなり、社会全体のコストが下がった。

③ 男性でも女性でも育児休業を取ったあと、元の人事評価のランクで職場に戻れることとした。これにより、出産と育児休暇取得へのモチベーションが上昇する。というもので、これにより、2006年には出生率は2.0を回復し、2010年には2.03となった。

一方、日本はフランスよりもひどい少子化になっているのだが、将来日本経済がダメになると常に言われながらも、特に大きな対応はしないままで、出生率は平成17年には1.26、2019年も1.36である。この対応の違いに愕然とする。この結果は2021年の男女格差ランキングで120位という不名誉な結果につながっていると考えている。女性が結婚・出産により社会で不利益を受ける限りは、この不名誉な記録は続くであろう。

本当に日本の国の対応力が低下している。少子化だけでなく、コロナのワクチンに関してもそれをすごく感じる。日本の対応力の低下は、効果的な対応策をとれないということだ。一般人が考えられるレベル以下のことを上がやっているとしたらどうなるのだろう。ここから本来持っている日本人の賢さに期待したいのだが。

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会社の寿命は30年


会社の寿命は30年と言われ、同タイトルの本も結構売れた。35歳から40歳くらいで会社を起業した経営者の年齢は起業後30年経つと65歳から70歳程度になる。例えば、サラリーマンとして働いている人が、仕事をする中で自分ならもっと良いサービスを提供できると考えて起業したとする。そしてその考えは正しく事業は軌道に乗り、経営者となった人は事業に全力を尽くす。しかし、社会の変化は激しく、新しい考えを持った別の起業者や、時代に合わせて戦略を変えてきた他の企業に追われる立場になる。しかしそれまで彼は事業の運営に忙しく、未来のための研修や、新たな構想やそのための人員の手配をしてこなかった。その結果どうなるかは推測できるだろう。つまりどんなに優れた事業のやり方も、常に変えていくことなしには時代により陳腐化することは避けられないのだ。

特に今のように新しい技術やスキルがどんどん出てくる、また女性や若い消費者の感性が大きく変わっていく時代には、消費者の行動が短期間で大きく変わる。それに対応しないといけないが、日本の中小企業の経営者の多くは、その労働時間の多くをいつまでもプレイヤーとして、つまり優秀な社員として働くことに使っている。マネージャーとして、新しい時代に合わせた事業計画や企業理念の作成に時間を使わない。
日本の経営者は社員の1.5倍から2倍働いているかもしれないが、給与はそれに見合っていない。もしくは安い報酬をもらって経営者として働いているならば、それはその給料に見合った仕事しかしていないことの証明である。

規模にもよるが、経営者はできるだけ多くマネージャーとしての仕事をしないといけない。ここで難しいのは働いている社員にとってはマネージャーの仕事は理解できないということだ。自分たちの理解できる仕事をして、かつ一番働いていてほしいという考えが社員に散見される。経営者に社員と同じレベルの仕事を要求するということになると、そういう企業は生産性の低い企業になる。日本が他の先進国と比較して常に生産性が最も低いのは、こういう思考により、経営者が本来の経営者の仕事をしていないのが一因なのかもしれない。

どんな会社の経営者も幹部社員も時間とともに陳腐化していく。それを食い止めるためには、経営者と幹部がもう本当の経営者・幹部としての時間配分を増やすしかない。それとも十年一日という言葉のように同じ状態がずっと続き進歩や発展がないことを目標にするのか。考えよ。

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親子の距離


弊社も設立30年を6月に迎える。大学を出てから、長男だからと親の呼びかけに応じ事務所へ戻ったが、親は何一つ約束を守らず、仕事に関する考え方も全く違ったため、5年後に会社を出ることを決意し伝えた。そうするとその時8名いた社員をお前が辞めたら全員解雇して事業をやめるといわれた。つまり、社員を人質に取られたのだ。やむを得ず8年ほど何もできない不遇の時間をすごした。

世の中の親は2通りあると思っていた。子供を甘やかす親と、厳しく接する親だ。どちらも子としては理解できるが、現実はこの二通りだけではない。さまざまなバリエーションがあり、子供たちを悩ませる。また親の外面と内面の違いも対応が難しい。結局、親には子供は勝てないと理解すべきだ。ここを理解している子供は、親に事業に帰ってくれれば、すべてまかせて自分はリタイアすると言われていても絶対に戻らないで、親と同じ事業を別の場所で始める。

私も年齢が上がり、ぼつぼつ親にリタイアしてもらうことを考えた時があるが、見事「生きててもしょうがないな。死のうかな」の一言で撃沈された。しないことはわかっているが、子としては、それを言われれば何もできない。考えてみれば親も親は初めて演じるわけである。戻った子は自分の将来の飯の種なのである。それは昔からそうだった。たくさんの子は親の年金の代わりだ。

お客さんを見ていて、公務員のような定年が明確にある仕事の人は貸家などのリタイア後の収入をある年齢から準備している人が多い。ところが医師や税理士などの個人事業者は何の準備もしていない人が多い。年金も国民年金でもらう金額は生活費にたりない。これは国の考えとしては、個人事業者は定年がないので一生働けるからそれでいいだろうということだ。また事業者本人もそのつもりだが、現実は無理である。農業のようにできることを手伝えるような仕事ならよいが、現代はもうやっていることが50年も経つと陳腐化して役に立たない。わかりやすく言うと、パソコンもスマホも触ったことがない人が、どうちゃんと働くのだろう。

40歳の時に親は死ぬまであれこれ言って対応しないと諦め創業した。またその時に、あれこれ口を出し始め、結局私に大きな損害を与えたが、断りも詫びもしない。でも今考えると親は子に謝らないし、その必要もないと理解した。子がそれに対応するしかないのだ。本当に親と子の距離感は難しい。

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組織力の強化


中小企業の社風判断などで、会社の課題をチェックしてみると、ほとんどの会社の課題として「組織力の強化」がピックアップされる。そしてまた多くの経営者がそれを意識している。この「組織力」というものの実態は何だろうか考えてみることにする。

社員が一人以上いれば組織である。またその社員が家族の場合でも原則同じだ。組織力の実態は、社長の経営理念の実現に向けた幹部、社員のそれぞれの役割と権限委譲とそれを可能にするコミュニケーションと評価だ。しかし、ほとんどの会社の経営者はマネージャーの仕事をしないといけないのに、一人分の給料がもったいないと社員と同じ仕事をしている。またほとんどの会社の幹部・従業員は社長と同じ仕事をしている。つまり、社長の方針を、自分が社長になって否定しており、他の社員に「社長がこんなことをいうが、そんなことをしても意味がないので、する必要はない」と言い放ち、自分が本来すべきプレイヤーの仕事をしていない。結局それは自分ができないことの言い訳でしかないのだが、自らの気持ちをごまかして、チャレンジをしないだけでなく、会社全体へ影響を与える。まさしくグラシャムの「悪貨は良貨を駆逐する」ということになってしまう。

これからは否応なく評価の時代に入る。なぜなら働く若手は少なくなり、ITリテラシーなどの新しい時代に必要なスキルを中高年は持っていない。年功序列や定年などは霧消し、評価が人事の核になることは見えている。国や地方の状況を見ればよくわかるが、いくらデジタルへの移行を言っても、権限をもっている中高年は、自分の不得手なところはスルーする。いつも聞くのは「これまでやれたのだから、変える必要はない」という言葉だ。これは欧米なら即降格の対象だ。ところが日本ではそういう人が数と権限を占めているためそうならない。私が大学を出た頃の日本人の平均年齢は27歳くらいだった。今は47歳くらいだ。そして経営者の平均年齢は60歳だ。日本経済の問題は、新しい時代への対応を若い人でなく、中高年がやっているということだ。若い人が絶対的に良いということではないが、政治におけるクオーター制のように、中高年の経験を活かすためにもすべての分野において若い人の考え方とスキルを取り込んでいく仕組みにしないと益々他の国に遅れていくような気がする。

経営者、社員の多くは目の前に起こる事象しか見ていない。しかし、多くの経営上発生する事柄は、好むと好まざるとを問わず、時代を反映して、世界、日本、業務地域とその多くは収斂していく。未来を見て、今をしっかりと実行するしかない。

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