コラム

ひろゆき


最近テレビなどに露出が増え注目されている人として、日本最大級の匿名掲示板「2チャンネル」開設者で、パリに住みながらネットで日本の番組に出演している「ひろゆき」という人がいる。彼はこれまでのテレビのコメンテーターとは別のタイプの人間のようなので、本を数冊買って読ましてもらった。読んでみるとなるほどと思わされることも多く、彼が行動力と考え方で社会に出てきたことがよくわかった。彼の代表作「1%の努力」という本では、世の中では成功には1%の才能と99%の努力が必要だといわれる。そしてポイントは99%の努力をすることだと言われるが、彼はそれは違っているという。努力が一番大事と考えてやっても多くは無駄な努力になると言っている。まず1%の才能を持っているかが重要で、そういう人の努力は報われるが、1%の才能も持っていない人は、努力をしても無駄でしかなく、本人の1%の才能がある分野を探して努力すべきで、不必要な努力をせずに生きるかということが重要と主張している。

彼の本を読んで感じるのは、できるだけ無駄なことをせずに物事を処理していく効率というものを重視する考え方だ。ITやスマホの登場で自由な働き方はひと昔前よりさらに拍車がかかった。ひろゆき氏のようなこれまでの働き方、生き方に縛られない人はどんどん増えるだろう。「多様性」とは、自分と違う個性を認めることだが、人は皆当然に違うわけだから、自分自身の個性を認めてもらうことにも通じる。

以前娘がフランスに住んでいるという話をしたが、最近娘と話すのは「君は良い国に住んでよかったね」という話だ。0歳保育は100%、大学まで授業料は無料、かつ優秀な学生には年に30万円程度のおこづかいまででる。それでパソコンやら必要な本を買えということのようだが、使途はチェックされない。また毎年1か月のバカンスが国民全員にあり、それ以外にも休みは多い。パリの美術館は誰でも行けるように安く設定され、仕事でも育休で休んでも、仕事に戻るときは同じポジションで戻れる。コロナに関しても、人口比では日本の14,5倍の死亡者数だが、すでにパリの街は主にワクチンパスポートを持ったEU加盟国やアメリカ人観光客で混雑しているそうだ。

一方日本は先進国の中で感染者数は格段に少なく、死亡者数も少ないが、コロナとの共存はできていない。感染学者の話は不必要に不安をあおっているようにしか聞こえず、その話に未来は感じられない。病床が常に足りないのは、コロナ以外の生命に係わる病気があふれていて、その方が重要と考える医者が多いからだが、それを言うと人命軽視と言われるので黙っているだけではないのかとも考えてしまう。

渕上コラム「変える言葉」
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仮説


皆さんは仮説を立てて生きて行っているだろうか。人生には仕事、家族、趣味などいろいろあるだろうが、こうしたらこうなるだろうと未来の姿をまず描き、それに向かって努力をしながら生きているのだろうか?ちなみに私の人生の仮説の中で最も大事なものは「自由」と「時間」である。この「自由」と「時間」を基本として解答をチョイスしている。従って従業員の時間もできるだけ奪わないように、実用な仕事さえこなせば時間の融通が利くように物事をすすめている。

50年ほど前女性はほとんど専業主婦であった。時間と金を使い教育を受けたが専業主婦になる。私にはそれは非合理ではあった。学歴が飾りにしかなっていなかったからである。それが今は、ほとんどが共稼ぎである。これは人口減少に伴う働き手の確保策としての女性の社会進出という政府の後押しでもある。ということは、今は夫婦二人で仕事をし、子育てをする社会なので企業もこれに対応しないといけない。また一人親も多くなっているのでこれに対応しないといけない。さらに親の介護の問題もあるのでこれに対応しないといけない。つまり企業は各社員の普通の生活が成り立つようにしながら、かつ業績も上げないといけないという新時代のテーマに向き合っているのである。それ対応できないと、若い社員は誰も来ない会社になる。

「時間」に関しては、仮に皆さんが80歳で金持ちだとする。その時、もし神様が全財産を差し出せば、望む年代にしてやると言われたら、たぶん多くの人はそうするのではないかと考えている。そうすると、人生では、お金より時間が大事だと人は考えていることになる。若者はその一番価値あるものを消費しているために輝いて見えるのではないかと思う。

この時間という概念は、仕事で考えるとよくわかる。時間を働いている人から奪っている企業は、いわゆるブラック企業で、今の若い従業員は定着しない。時間の有効活用ができる企業は人がやめない企業である。今はそういうマネージメントができる企業に人が集まり、成長ができている。しかし、一方仕事をどんどんしたい人はそうさせてあげないといけない。経営やそのための仕事においても仮説を立てると立てないとでは大きな違いが出る。有名な話ではリクルートを作った江副さんは、会社を作るとき10年で100億円企業を作りたい。そのためにどうするかということを徹底して考えたという。彼はリクルート事件で退いたが、目標から逆算するという考え方は、今も多くの支持を集めている。自分の働き方は自分で選べる時代になって欲しい。

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ワンピース


ワン・ピースのコミックが100巻を迎えた。現在100巻以上のコミックは17作品で、最も多いのはゴルゴ13の202巻らしい。私は高齢者だが今でも一部の漫画は読んでいる。ただ若い時のようにすべてに目を通すことはせず、気になるものだけ目を通している。その中でも楽しみで読んでいるのはワン・ピースとビッグコミックだ。

大学在学中に、駅で電車を待っているときに知らないおじさんが「漫画なんて読むな、もっと難しい本を読め」と言って通り過ぎたことを今でも思い出す。その前まで難しい本を読んでいたので、休憩で漫画を読んでいただけだったのだが。おじさんの言いたいことはわかるが、少し自己中心だ。こちらの都合はわからないからだ。あのおじさんは研究者が酒を旅行先で読んでいたら、旅行などせずに(仮にハネムーンでも)寝食を忘れて研究しろというのだろうか。集中力の持続を考慮しないすごく非効率さを推進しているとは考えないのだろうか。

いつの時代もそうだが、その時代を生きている人は、次の時代のことがわからない。林修先生が若い人へのアドバイスで「親の言うことを聞くな」ということを言っていた。つまり親には子の時代のことは理解できないからだ。例えばユー・チューバー、今の人気職業で、かなりの金額を稼ぐらしいが、子がユーチューバーになりたいと言えば、ほとんどの親は反対し、公務員や銀行員になると言えば、ほとんどの親が賛成する。しかし、今や官僚はブラック企業の代表だし、銀行員はどんどんリストラされている。逆に漫画家の名声は世界に知れ渡っているし、コミックやアニメは日本の強いソフトとして世界に知れ渡っている。私のフランス在住の孫も漫画のファンだし、大学卒業後の志望がパイロットからアニメデザイナーへ変わってしまった。

つまり過去を生きてきた親や先生の考え方と、未来を生きる若い人の考え方に齟齬があるのは当たり前だということだ。特に現代のように社会が急激に変化するときはなおさらだ。これに親は特に注意しないといけない。相続の時によくあることが、昔の親の相続はほぼ長男への相続だった。そして次の代になって相続が起こると、上を見ていた長男は俺がすべて相続して他の兄弟の面倒をみると主張するが、それはちがうと他の兄弟から否定されて分割が行われる。しかし、まだ均等とまではいかないことも多いが、次の世代ではほぼ均等に行われるようになると考えられる。時代は確実に変化していく。その中で100巻を超えるコミックというものは、必ず時代を映している。それがないと続かない。その理由を考えるのも楽しい。

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パラオリンピックの閉幕


9月5日の日曜日にパラオリンピックが閉幕した。個人的感想だが、パラはその前のオリンピック以上にすばらしかった。期待を込めて見た閉会式の視聴率は関東では20.6%だったと報じられた。この数字はすごい。多くの人がかなりの関心をもってみたということがわかる。海外でも多くのマスコミが効率的で圧巻の内容だったと高評価だったのも嬉しい。

競技では、最終日のマラソンで視覚障害のある44歳の道下美里さんが普通の人でも走るのが困難な42.195キロをその小さな体で並走者である夫と一番に走り切ったのにはびっくりした。障がい者は、普通の人よりもハンディがある。そのハンディを克服するためにどれくらいの努力をしたのだろうか。それを考えると感動が深くなる。

もう一人印象に残った選手がいる。パラ最年少で金メダルをとった水泳の山田美幸さんだ。テレビ画面に両腕がない山田さんの姿を見たときはびっくりした。しかも両足も長さが違うし、まるで五体不満足の作者の乙武洋匡(ひろただ)さんがパラリンピックで泳いでいるような衝撃だった。一緒に泳ぐ海外の選手は長い手足がある。それで金メダル、いったいどれくらいの努力をしたのだろう。実は障がい者の人と接するとイメージと違い明るい人が多い。逆に障がいが特にない私たちの方に暗い人が散見される。これはなぜかと考えると、障がい者は前を向いて必死にがんばらざるを得ない状況があり、それが彼らを前向きにさせているのではとも考えている。山田さんは、将来は外交官になって、人と人をつなげる仕事がしたいと話していた。その話にも夢を感じてうれしかった。乙武さんも「僕は五体のうち、4体までがないが、多くの友人に囲まれ、車いすとともに飛び歩く今の生活に満足している。毎日が楽しいよ」と言っている。あー同じなんだと本当に思う。

前回のリオパラリンピックでは金メダルはなく、銀と銅で24個のメダルを獲得した。今回は金13個、銀、銅含めて51個で、史上2番目の数となった。今回のパラの最大の功績は、これまで日本人に多かった障がい者に対する偏見をかなり払しょくできたことにある。私もその一人だ。これまではそういう人を見ると気持ちが悪いと言っていた人が、そうでなくなったと話していたのも嬉しい。

とにかく、いろいろ物議をかもしたオリンピック、パラオリンピックが閉幕し、次回のフランス・パリへ引き継がれた。初めてパリへ見に行ってもよいなと感じている。

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マスコミ情報の受け取り方


日本のマスコミ情報の特徴は、多くのテレビ局、新聞・雑誌が特定のある情報に対してほぼ同じ内容の情報を提供し、あたかもそれがすべての真実であるように受け手もとっている人が多いということにある。つまり情報操作しやすいのである。戦争中がそうであったし、今のコロナに関してもそうである。海外、例えばアメリカでは新聞により言っていることは真逆だということはよくある話で、海外経験のある人は、日本の新聞・雑誌は見ない。本当のことは書いていないから、自分で調べるという人も多い。

また人は、自分の都合の良い情報、自分の価値観に合う情報は探して見るが、自分の意見・価値観に合わない情報はシャットアウトするという特徴を持っている。最近の例でいうと、高齢者の自動車事故だ。マスコミは高齢者の自動車運転は危ないから免許を返納するようにと高齢者の起こした事故について詳細に報道する。しかし実際は、とびぬけて事故率が高いのは10代で、他の年齢の2~3倍ある。しかし、マスコミは「若者は免許を取らないように」とか、「免許の取得年齢の引き上げ」には触れない。また実際に75歳を過ぎると、高齢者の事故も25歳から29歳とほぼ同率となり、少しずつ上がっていくが、85歳以上になっても20~24歳の事故率よりは低い。人により元気さは異なるし、町に住んでいる高齢者は車の運転の必要性はあまりないだろうが、地方に住む多くの高齢者は車がないと生活に支障をきたすだろう。しかし町に住む子供がお父さんもう運転やめてといっても、実利をとる年寄りは無視する。そこで子供は頑固で困るということになる。

テレビなどで見せられる情報は、国などの方針をマスコミが配慮するという場合が多くある。高齢者の免許の返納を促したければ、テレビで高齢者がアクセルとブレーキの踏み間違いでコンビニにつっこんだなどと、ことあることに高齢者の事故だけを放映し、一方、若者の速度超過による死亡事故は大きいものを除き取り上げなければよい。ただこれから高齢者は増加する一方のため、当然に対応すべきことは多いと思う。

コロナについてもひどい人ばかり放送するが、実は普通はそうでない人が多いだろう。しかし、もっと注意して欲しいという意図があると、かかっても元気だという人は放送されない。注意を促すことがメインで、正確な情報は提供しない。しかし、今の若者はそれくらいのことがわからないわけがない。従ってあまりテレビの言うことは信用しない。よく若者が飲み歩いてコロナを拡散すると言われたが、結局一番飲み歩いていたのは中高年だったとも聞く。正しく情報を伝えることが一番重要だが、大変難しい。

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パラリンピックへの期待


パラリンピックの開会式を見た。自国開催でなければ絶対見なかったと思うが、初めて見てびっくりした。多様性という意味で、オリンピックよりオリンピックらしかったのだ。 オリンピックの開会式は、いろんな人から意味がよくわからないなど批判が多かったし、個人的にも他国のオリンピックの開会式と比べると少し物足りなかった。しかし、パラリンピックの開会式には最初からひきつけられた。

オリンピックではいろんな人種・民族が衣装などで表現されているが、パラの場合は一目見て世の中の多様性が理解できる。手がない人、足がない人、小人、目が見えない人、その他日常の生活ではあまり会えないような人がずらりと並んで出演している。そしてそういう障がい者が世界の人口の15%がいますと世界に向かって告げていた。考えてみるとこれはすごい数だ。この世に生を受けた時から障がいがある人、普通に生まれたが病気やけがで障害を持つようになった人などさまざまな原因で誰でも障害を持つ可能性はある。障害を持った後にどう生きるかということの大切さを理解した。障害を持つアスリートにまったく暗さや卑屈さは感じられなかったからだ。

10年ほど前、中国に行くことがあり、帰りの飛行機で障害のある男の子と母親と話しをしたことがある。母親によると、いろんな国に障害を持つ子と一緒に旅行しているが中国は最低だ。なぜなら平気で障害のある子供を指さし、大きな声で話をしていると言っていた。国の成熟度は社会的弱者に対しての対応でわかるというが、そういう意味では中国はまだ途上国なのだろう。

私が大学の頃、部活で少し障がい者と接することがあった。当時は障がい者の施設の多くは人目に触れない山の中などにあった。人目に触れるとかわいそうだということらしいが、それはある意味そういう普通の人と違う人を隔離するという意味もあったようだ。それが現在は町の中で、健常者と混じりあって生活するようになってきた。障がい者に対し、見られると可哀そうだから他人と接しないようにすべきと他人が言うことは明らかに間違いだ。障がい者の人は、へんな気を使ってほしいのではなく、普通の人と同じように接してほしいということだ。そして助けが必要な時は助けてほしいとのだ。考えれば困った人を見れば、必要な時は助ける。ごく普通のことだ。ある障がい者は著書の中で、冗談で「お前の手は***か」などといじって欲しいと言っていた。そういう関係性を作れれば最高だ。つまり障がい者も普通の人もオリンピックの選手も、基本皆同じ人間で、それぞれに特徴があるということだ。多様性は人類を救うと信じている。

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コロナのリスクとは何か?


コロナの感染が止まらない。感染のリスクについて考えてみた。
• コロナの感染により人が死ぬこと(特に高齢者)。後遺症が残る人がでること
• コロナの感染により医療崩壊がおこること
• コロナの感染により、通常医療ができなくなることによる→それによりコロナより多くの人がなくなる可能性は大である。
• コロナの感染により自宅待機を余儀なくされ、運動不足により生活習慣病や肥満を誘発すること→コロナ以前でも厚生労働省は運動不足で毎年5万人が死亡していると発表している。ちなみに喫煙による死亡者は毎年13万人に達するが、喫煙の禁止ということにはなっていない。なぜなら個人の自由を制限することやたばこ税の問題もばかにできないからである。
• コロナの感染により人の移動が制限されるため、宿泊業者やJR,航空会社、旅行代理店など多くの業種の運営の継続が不可能になること
• コロナの感染で飲食店がターゲットとなり、飲食店の経営がなりたたなくなること
• コロナの感染により飲食メーカーや生産業者についても売れないため、縮小や廃棄を余儀なくされ、経営を圧迫されること
• コロナの感染によりこれまでの業種に係わる従業員の雇用が守られなくなること
• コロナにより職を失い、収入がなくなる人が増加し、生活苦の人が増加し、自殺者が増えること→政府の支援次第だが
• コロナの感染により、学校生活や学ぶ機会、スポーツする機会が損なわれること
• コロナの感染で、普通の自由な生活が損なわれること

コロナのリスクにあまりさらされない人について考えてみた。
• 公務員:解雇されない、給料は保証されているので生活に影響は少ない。
• 高齢者:年金暮らしのため影響は少ない。また一般的には活動範囲も狭いためコロナの影響をある程度防ぐことは可能である。
• リモートワークが可能な職業の人、僻地・田舎に住んでいる人

さて一つの疑問は、感染症は防げるのかということだが、人類の歴史でそれができたのはただ一つ、天然痘だけだ。そうすると、コロナはこれからずっと人類と共存していくことになる。他の先進国でもロックダウンしてもその後感染者は増加する。デルタ株の登場により、感染者数はインフルエンザの年1000万人に迫る可能性も出てきたが、どこにポイントを置き、戦略を立てるべきかがポイントになる。

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オリンピック


8月8日にオリンピックが閉幕した。個人的に総括すると楽しいが残念なオリンピックであった。未来のために観客を入れてやってほしかったが、それでも自国開催のため、多くの競技を楽しむことができた。日本ではこれだけ開催に批判的なオリンピックで、しかも日本でのワクチンの接種も遅れており、かつ緊急事態宣言も出ている。辞退する国が多いのではと考えていたが、海外からは過去最多の205カ国の参加となった。このコロナ過でこれだけの国が参加したのは驚きだ。海外におけるオリンピックの評価は日本と全く違うということを理解した。しかも日本の組織委員会は参加者をどんどん削っていき、選手は選手村にカンズメにされ、施設面でも選手村のベッドは段ボールで、選手が上で飛んで壊すということまで起こった。しかも日本人には自粛要請はあるが、基本的には自由に行動できるのに、来てくれたアスリートたちに対する「おもてなし」は、コンビニに行くことだけでもチェックされることだった。

日本にはオリンピックについてあまり重要なものと考えない国民と、重要だと考えているアスリートがいた。オリンピックに関しては、確かに商業主義など批判は多いが、オリンピックが1896年にアテネで始まって以来、アジアで最初に1964年に68年経過してやっと東京で1回目が開催された。今回の2回目までに56年かかっている。他の多くのアジアの国では望んでも開催されないオリンピックを開催できる矜持を持ちたい。次の開催まで今の若者や子供たちは見ることはない。そういう意味では無観客試合の決定の中で子供たちだけでもサッカーの観覧をさせた茨城県は英断だと思う。オリンピック開催へのこだわりは日本の威信がかかっていたのだ。

また閉会式での次回のオリンピック開催地のパリからの映像には日本との温度差を感じた。日本の開会式、閉会式ともピクトグラムや歌舞伎のようなおもしろいチャレンジングなところはあったが、日本人である私もこれは何だというものが多かった。それに比べてフランスはまだ3年後だが、期待を持たせてくれる映像であった。

毎日1600万人が東京都内を密の中移動している。オリンピック開催で、3万人の人が来るとより感染拡大するにちがいないという理屈はどこから発生するのか理解できない。発表にも意図を感じる。オリンピック関係のコロナの感染者、死亡者などは累計で発表し、東京都の感染者数は日単位で発表していることだ。一度4人に1人がかかり、毎年40万人弱が死亡するガンについてコロナと同じようにテレビで扱ってみたらどうだろう。どういう結果になるのだろう。

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イノベーションのジレンマ


隆盛を誇った企業が次第に衰退していく理由をイノベーションのジレンマという。これはハーバードの大学教授クリステンセンが唱えたことだが、巨大企業が傾くのは破壊的な変化を避けようとするのではなく、有望だが、現状の事業に悪影響を与えそうで、短期的な成長要件を満たさないと思われる新市場への対応が消極的になりがちだからだということだ。これは、大企業に限らずすべての企業にも当てはまる。

例えば、IBMはメインフレームからミニコンピューターへのシフトに乗り遅れたし、シアーズはデパートからディスカウントストアーへの変身に失敗したし、100年以上続く老舗であるコダックは写真フィルム事業を展開しながらデジタルカメラを開発していたにも関わらず、利益率が低い分野でどうなるかわからない新事業の立ち上げに経営陣が躊躇し、積極的な展開をしなかった。これに対し、アマゾンは新刊の売買に悪影響を与えそうな古本の売買を同時に行い、その後キンドルという電子書籍の開発などにもたゆまずに投資した。その結果が今のアマゾンの隆盛につながっている。

中小企業は基本的に資金が乏しい。ところが金融機関は常に過去の数字を参考にして融資するため、新規事業の投資がやりにくい。新規事業の投資というものは、基本的に大きな結果をもたらすものほど短期的に資金を回収することは難しいからだ。アメリカのシリコンバレーなら多くの投資家が将来有望と考えられる分野や技術に対し、過去の売上や利益に関係なく大きな資金の提供をする。しかし日本では悪評の高かったエンジェル税制など政府の支援策も乏しいし、個人の支援をする仕組みもない。そこで最近ではM&Aという形で支援が行われるようにもなった。

中小企業の場合、会社の寿命は30年と言われるが、通常10年で90%の企業がなくなってしまう厳しさを乗り越えた企業でも、新しいことに対するエネルギーが足りなくなる必然がある。まず経営者が老齢化して、新しいことに興味がなくなるか、じぶんのわからない分野を社員にまかせることができない。次に幹部社員もこれまでやってきたことを否定するような新分野に挑戦する部下に協力しない。それはこれまでの仕事の上に胡坐をかく古参社員にとっては我慢できないだろう。その結果業績は低迷し、古参社員の処遇が悪くなり、優秀な社員は別の企業に移るか、独立して起業することになる。そして企業は衰退する。M&Aで運よく新しい優秀な経営者に恵まれれば、次のステップに進めることもあるが、その時の問題は古参社員だ。彼らが意識を変えられるかが彼らの価値を決めることになる。

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オリンピック開催


7月21日にオリンピックが始まった。日本としては1964年の第18回以来2回目となる。1964年のオリンピックは、アジアで初めてで、第二次世界大戦後の日本の復興の象徴だったが、開催前は開催賛成の人は3%しかなかった。多くの日本人は、生活がこんなに大変なのに無駄なお金を使う必要はないと考えていた。しかし、オリンピックが終わると、100%の人が開催してよかったと答えている。

最初の東京オリンピックの時も、実は世界でのコレラの蔓延が報じられ、国内でも組織委員会が大会に係る職員などに予防接種を打つなどしたが、大会が始まってからもコレラ患者が見つかったりしていた。その後のオリンピックでもエイズや、近いところではリオでのジカ熱の蔓延でゴルフの松山選手が出場を辞退したことを思い出す。つまり、世界中の国を相手にするオリンピックのような競技は常に感染との戦いになる可能性が高いということだ。これからはサッカーやラグビーのワールドカップもオリンピックと同様の処遇を受けることになる。

1回目の東京オリンピックの開催が決まった後、東京都がしたことには次のようなことがある。まず首都高の建設、5年間で作らないといけないということで、時間のかかる用地買収を避けて、その時あった道路の上、川の上、又は川を埋め立てて作られた。次に新幹線、そして当時東京砂漠といわれ、常に水不足だった東京に大きな川から水を引いてくる工事にも着手した。また当時東京は世界で一番きたない都市と言われており、都民は平気で道路、川へごみを捨てていた。そこで毎月10日に全都民で掃除をして町をきれいにするようにした。現在の世界で一番清潔と言われる東京は、この東京オリンピックを開催することで基礎が作られたのだ。

そういう混乱の中でオリンピックが開催された。この開会式を見て、当時オリンピックの開催に批判的だった石川達三は次のように言っている「開会式は金のかかったセレモニーだ。この日のために参加各国はどれほどの犠牲を払ったことだろう。聖火を東京に運ぶだけでも、何万という人が苦心し、努力をしたはずだ。しかし、ここに94か国の選手、6千人がつどっている。これが国と国との親睦と理解を進めるものであるならば、何と安いことだろう。まことに喜ぶべき犠牲ではないだろうか」彼は現実のオリンピックに触れ、考えを変えた。今回は205ケ国、1万1千人程度の選手が参加予定だ。参加する海外の選手にとって、すごく楽しくないオリンピックになり、日本へのイメージが悪くならないことを切に望んでいる。

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