コラム

新型コロナウィルス


今、新型コロナウィルスの脅威が連日テレビでニュースやワイドショーをにぎわせている。いつものことだが、新しい得体の知れない不安に接すると人はパニックに陥り、正常な判断ができなくなることが多い。こういう新しいものへの対応はお国柄がでる。日本はどちらかというと必要以上に神経質になる傾向があるようだ。私の住んでいる県は一人も感染者が出ていないのに、娘の住んでいるマンションを尋ねるとエレベーターに乗ってきた人は、ペンで行き先階を押していた。日本人はしないよりしたほうが良いからするという発想が多い。

一方アメリカでは新型インフルエンザで14,000人がすでに死んでいるが、この中には新型コロナウィルスで死んだ人も含まれているのではという意見がでてきた。しかも現時点でもまだ明確でない。これに対しヨーロッパでは注意はするが、必要以上に気にはしていないようだ。まずマスクを付けている人があまりいない。マスクを付けるのは病人と相場が決まっているからだ。確かに国の対応としては、早めの対応や慎重な対応が求められるだろう。しかし、その対応は臨機応変でなければならない。なぜなら新しい脅威は本質がわかっていくにつれ変化していくからだ。政府の対応も少し柔軟性を欠いている気もする。

しかし、視点を少し変えて見ると違った状況が見えてくる。日本だけで毎年風呂で亡くなる人は約6,000人、しかし実数は2万人弱とも言われている。交通事故で亡くなる人は世界中で1年に135万人とWHOが発表している。それでも私たちは風呂に毎日入るし、車も運転する。新型コロナウイルスだけでなく、私たちが生きていくことはリスクに満ちているのである。

行動経済学では、「人は理屈で動くのではなく、感情で動く」と言うが、まさに新コロナウイルスはそういうことを具体的に示している。新コロナウィルスの正体がだんだんわかってくるにつれ、冷静なそして科学的な根拠に基づく対応が必要になる。合理的な考えをしないと、適切な対応が出来ず、人災が避けられない。風評被害が起こるのは事実が理解されず、感情に左右されている証拠だ。福島原発事故の対応に関して、故吉田昌郎所長の壮絶な戦いが映画になっている。しかし、彼の場合は目の前の福島原発のみへの戦いだが、今回のコロナウィルスは日本全国での対応になる。誰が中心で取り仕切っていくのか私には見えないのだが、国としての対応が適切でないとダイヤモンド・プリンセス号の二の舞になるが、今後どうなるのだろう。

渕上コラム「変える言葉」