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卒業


三月は卒業シーズンである。卒業を別の意味で言うと「門出」である。つまりこれまでの学校や家の門を出て新しい環境に身を置くことである。私は子供は天からの預かり物と考えている。従って卒業するととにかく家を出ることというのが我が家の家訓のようなものであった。これは男女とも同じで、特に女性の子供は危ないから家から出なくても良いということはない。最近男女の差別の問題が取りざたされているが、そういう意味では家庭でも会社でも一切男女差別をしたことはないと自負している。

家では子供達から他の親は家から出ないでと言っているとか,お父さんは可愛いと思っていないのではないのかと言われたりもした。会社では男と同じ仕事を女性に割り振るとやめる社員もいたし、顧客から女性では困ると言われたこともあった。しかしそれらの発言をすべて無視してこれまで男女平等を実践してきた。私にとっては,それは子供や社員にチャンスを平等に与えるということであった。

子供にとっては親に縛られずに好きな人生を選べるということであり,社員にとっては能力のある女性が男性社員と同等の仕事を与えられることは当然のことだったからである。当然に男女の区別はあると思うが,男女の能力の差は理解できない。

学歴も同様だ。大学に行っているからといって普通4年間だ。一生使える知識を得るわけではない。親の経済状況や、本人の意識の問題で行かないものも多いだろう。その後数十年も実務の世界で学ぶ。その後は同等だと考える。しかし、その後もずっと大学で差別されるのはどうなのだろう。ただし、これは理屈であって現実とは少し違うことも理解している。学歴の低いものの中にはあまり勉強が好きでない者が多いのかもしれない。その結果学歴が低いものにはチャンスがあまり与えられないことも多い。しかし、その後の努力で引上げられることは必ずある。下は上を見ていると言うが、上も下を見ている。

トヨタ自動車の奥田碩(ひろし)社長もその一人だ。その歯に衣着せぬ物言いで上司から反感を買い、ギャンブルを好んだため仲間からも浮き、マニラへ左遷される。しかし、豊田章一郎氏に「こんな所にすごいやつがいる。本社の人事部は何をしている」と言わせ,帰国となり,その後社長となった後,ハイブリッドカーのプリウスをトップダウンで発売したり,F1へ参戦したりした。能力は自分を裏切らないのだ。能力を磨くには何をすべきか考えて欲しい。

渕上コラム「変える言葉」
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確定申告


3月に入り,個人の確定申告で多くの税理士事務所は忙しい。しかしその内容はかなり様変わりしている。私が税理士事務所へ入所した時,まず驚いたのが,3月の多忙期の働き方だ。全員毎日午前様は当たり前,新入社員の女性も同様であった。不思議なことに皆で毎日遅くまで働いていると変な充実感があったのは事実だ。さらに打ち上げを最後の日にしていたのだが、仕事が遅れて途中から参加する社員に、皆がお疲れ様と拍手していたが,私個人は拍手されるべきは早く仕事を仕上げて先にここに座っている人で,遅くなった人は顧客にも迷惑をかけている人だと思い,変な慣行だと感じていたことを思い出す。しかし、確定申告時の異常な(働いている社員はそう思っていなかったらしいが)労働状況の影響で私の視力も数年で1.5から0.07まで低下した。それ以来メガネの世話になっている。

その後、この確定申告の状況を変えたいとチャレンジを試みた。まず実際の状況を確認した。すると、忙しいと言いながら1月、2月はあまり残業もせず確定申告の準備もしていないことが分かった。そこで1月になるとすぐに準備をすることにした。申告は2月16日からだが、資料をもらうのは別にいつでも良いからだ。そして申告書を作り,提出だけは期限が来てからすれば良いのだ。「一番最初に提出します」という文言は顧客にもアピールした。

次にシステムの課題だ。今でこそ随分と使いやすいソフトが出来ているが,当時はそうでもなかったので、いかに使いやすいソフトやシステムを導入するかという検討を東京に何度も足を運び行った。そして新しいシステムの導入となった。

さらに昔は担当者に一人の若い女性が補助でついていた。古参の社員の着手が遅いせいで一緒に3月になると連日午前様に付き合わされていたのだ。そこで補助は定時に帰るパートさんにして、特定の担当者に帰属しないようにした。これまでのやり方でやると担当者が大変なので、皆少し早く準備することになる。その後午前様が当たり前の職場が、誰も午前様になることはなくなった。遅くても午後10時までには帰る職場が誕生する。つまり、ある課題を解決するには、一つは本人の意識・考え方を変えること。二つ目にはそれを後押しする仕組みが必要で,この2つがないとうまくいかない。根性だ。やる気だと上から言うだけだけではなく,経営者は全体の仕組みの改善を常に心がけていく必要があるのだ。仕組み作りと課題克服へのモチベーションアップこの2つがないと改善はうまくいかない。

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仕事の壁


私たちは、毎日ほぼ同じ時刻に起き、会社に行き仕事をして家に帰ります。会社の仕事は毎日ほぼ決まった業務を繰り返しおこなっています。そのやり方は会社としても、働く社員としても習慣として定着しています。その中で社員は単純な仕事から複雑な仕事まで習慣化させながら、仕事のスキルを向上させていき、ベテランとなり、そしてプロとなっていきます。

このように人は習慣化することで、長く継続をして効率よく行うことができるのです。
しかし、この習慣化には弱点があります。それは柔軟さに欠けるということです。将来のために必要な新しい習慣にない仕事は面倒になってきます。従来のやり方を変えるのも嫌がります。つまりマンネリ化するのです。このマンネリ化は次のステージに向かう進歩への障害となります。原則としてどんな仕事についても習慣化はなにより大事です。習慣化が規則を生んでくれます。安心感を与え、集中力を増し、ミスを防いでくれます。この二つの相反することをどう考えていけばよいのでしょうか。

まず事実を見ると、私たちの日常、顧客の置かれている状況や考え方、それに対応する仕事は否応なく日々変化をしています。過去は正しかったことも、未来は間違っているかもしれません。なぜなら、技術は日々進歩しているし、人の気持ちや考えも時代により大きく変わっていきます。これに柔軟に対応するには習慣化を壊してやる必要がでてきます。そのためには非習慣を取り入れるしかありません。例えば部下をつける。ポストを変える。仕事の幅を変える。目標を変える。転勤させるなどさまざまなやり方があります。

社員個人としては、そのような非習慣化はかなりストレスのある課題です。しかし経営者(幹部)の仕事として、習慣化で効率を上げ、それを壊すことで柔軟性を維持し、「習慣化の罠」に陥らせないこが重要になります。レベルアップするための仕事の壁は非習慣化を取り入れることから起こってきます。新しいことに挑戦することは誰にとっても大変なことではありますが、私たちの意思と関わりなく変化は起こってきます。考えて見れば、新入社員の時はすべての仕事は未知の仕事です。でもそれを当たり前と受入れる柔軟性があるため、新人は成長し、企業の中堅を担うようになるのです。経営者(幹部)から新しい仕事を依頼されたら、社員は思い切ってチャレンジすべきです。そうしないと気がついたらこちこちの今あることしかできない△社員になってしまいます。柔軟性の発揮は社員にとっての未来への切符なのです。

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組織風土


オリンピック組織委員会の森会長の発言が問題になっている。森会長が厳しい批判を受けたが、よく考えてみると、森さん一人の問題ではなく、日本社会にはびこる社会風土のような気がする。以前地域の集まりに呼ばれて行ったことがある。「誰か意見はありませんか」というので意見を述べたら、次から呼ばれなくなった。「誰か意見はありませんか」という言葉は形だけ皆に尋ねたということで、意見を述べてはだめらしい。

ところで、フランスはコロナの感染者があまり減らないので苦労しているようだが、その中でまたバカンスがあるので、皆どこかに移動するので減らないのではという意見を聞いた。つまりフランス人というのは、自分の人生を楽しむことの方がコロナ対策より重要だと考える国民性をもっているということだ。フランス人にとり自由を奪われるのは人生を奪われると同じなのだ。

組織風土とは「組織において、共通に認識される価値観やルール」と言うことなのだが、風土と言われるだけあって長い間の共通の価値観であるため、これを変えるのは一筋縄ではいかない。今回のオリンピックの問題において、はからずも日本の多くの男性が持っている価値観と、若い世代や女性がもっている価値観の違いが浮き彫りにされた。これをチャンスとしてとらえていかないと、日本はずっと男女平等ではない唯一の先進国というレッテルをはられる事になる。

過去を振り返ると、明治維新では、1000年以上続いた武士の存在やまげというカルチャーも明治維新で一掃されている。喪服が白から黒になったのも明治だ。西洋の列国に追いつくために、若い明治政府の指導者が一気に変革してしまった。オリンピック憲章には「男女平等、環境問題」についても明確に表明されており、最近話題の国連で開かれた主要国によって決められたSDGs(持続可能な開発目標)でも、2030年までに達成すべき17の目標として、「ジェンダー平等の推進と女性の地位向上」という項目がある。つまりいまや女性の地位向上やジェンダーの平等というものは、世界の共通の価値観として認識されているのだ。

一方日本は、まだ夫婦別姓も実現できていないし、従来の高齢者中心の価値観からも脱却できていない。しかも高齢者の人口比率が高く、若い人の意見が受入れられない。ある意味この状況は悲劇だ。これを変えるには世代交代を待っていると手遅れになってしまう。世界の価値観に追いつくための強いリーダーシップが必要だ。

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バランスが大事


ワンピースという漫画がもうすぐ終わりそうだ。現在単行本で98巻まで発行され、最後は100巻を超えそうだ。私が学生の頃漫画はまだ子供が読むものだというイメージが強く、それまで勉強で頭を使ったので、頭休めにベンチで漫画を読んでいると、見知らぬ年寄りが「若い者はそんなものを読まずに本を読め」と言い放って通り過ぎた。言いたいことはわかるが、すれ違った他人の状況は理解せず、ある意味善意で言ってくる。本人も仕事が終わって酒を飲んでいて、見知らぬ他人から「酒ばっかり飲んでいないで仕事をしろ」と言われたらどう思うのだろうか?

同じように「?」と感じるのが森元首相や二階堂幹事長だ。女性やボランティアの人々の思いや状況を理解せず話しをする。国のトップの感覚の鈍さにはびっくりする。これはいわゆる老害なのかもしれない。しかし、ここでも女性と同じように決めつけは厳禁だ。老人でも素晴らしい人はたくさんいる。日本はバランスが悪い国なのだと私は理解する。社会において男性と女性のバランスが悪い。老人と若者のバランスが悪い。仕事と家庭のバランスが悪い。家庭における夫と妻のバランスも悪い。このバランスの悪さがここ数十年の先進国の中での成長率の低さ、国民の幸福度の低さの原因の一つと思われる。

日本は終戦後に世界でも例を見ない経済成長を遂げた。その特異な状況におけるバランスをまだ引きずっている。時代に合わせて変化させないといけないのにそのままだ。つまり過去の成功体験にいまも制約されているのだ。システムとしてバージョンアップをしていないものが多いのだ。その足かせはあらゆるところに存在する。

日本人の基本的な精神は「和をもって尊しとなす」と言われる。しかし、実際には戦国時代あり、海外との戦争もありで、実は平和を享受する今ほど争うことを避けている時代はないのではないかとも思う。組織委員会の森会長の発言があったときも同じ組織委員会に属する著名な方達が何の声もあげなかったのは、そういう理由によるのだろう。私も同じ事をよくしてきた。そこで怒るべきだと思っても、どうせ変わらないだろうからやめておこうと、その場の雰囲気を大事にしたことも多い。

しかし、よく考えればそれは今だけの話しであり普遍性がない。欧米のように形だけ社外取締役をいれても、結局それを活かせない。問題は重大だ。本音を言い合えることはどれだけ重要か理解しないといけない。本音の話し合いは人を、社会を変える。

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ウナギ


ウナギと聞くと、なぜか蒲焼きのにおいが脳裏に浮かび食欲が出てくる。旅先では鰻屋の看板を見ると、少し高くても旅先だし食べてみようとすることも多い。日本人にとってウナギは特別な食べ物だ。江戸時代からウナギは庶民の好物だったようで落語にもよく登場する。最近の新聞にウナギの稚魚今年も豊漁と出ていた。稚魚は前年比で4割安ということで、すっかり高級魚になってしまったウナギが少しでも安く食べられると今から楽しみだ。

ウナギの産地としては、一番は鹿児島県、2番が宮崎県、そして愛知県、次に静岡県となっている。しかし、日本人が食べているうなぎは、その約6割が輸入であり、中国が最大の輸入元で、スーパーで売られているものが多い。4割が国産だが、天然物はほんの0.3%程に過ぎない。後は養殖物だ。

鹿児島県は鰻池という池もあり、池田湖には体長1.8メートル、20キロのおおうなぎが生息している。宮崎県西都市には、日本一ウナギを焼くという「うなぎの入り船」という店があり、店前の神社には入店を待つ人が並んでいる。愛知県は「ひつまぶし」という独特の食べ方がある。静岡県は浜名湖のウナギは昔から有名だ。

ウナギを食べに行っていて気がついたことがある。それは産地と提供する名店のある場所が異なることが多いということだ。例えば千葉の成田山の門前にはウナギの店が多い。しかし、それはその近くで取れるからではなく、食べる人が多いからである。埼玉の川越にも鰻屋は多いが街道沿いだったためらしい。今の東京にも鰻の名店が数多くあるが、それも江戸の人が多く食べたからである。考えてみればしごくまっとうな理屈である。

ちなみに海外でもウナギを食べる国は意外と多いが、食べ方が燻製とか揚げるとか随分違う。私はフィリピンでよく食べていたが、ぶつ切りにして揚げていた。
 
実はうなぎの旬は夏ではなく、10月から12月くらいなのだが、江戸時代に平賀源内が夏にお客が来ないといううなぎやの窮状を救うために「土用の丑の日にウナギを食べると夏を乗り切れるスタミナがつく」という話しを作ったことにより夏に食べるようになったと言われている。これは天然うなぎの場合で、養殖うなぎの場合は、夏においしくなるように工夫をしているようだ。あー、四万十で天然の鰻が食いたい。

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視点


NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が2月7日に最終回を迎える。最近あまり大河を見なかったのだが、明智光秀が主人公ということで、どんな視点で演じらせるのだろうという興味で見てしまっていた。

よく言われているが、過去の歴史は勝者の書かせた歴史であり、当然に敗者のことは悪く書かれ、勝者は良く書かれている。通常敗者は亡くなっているので、死人に口なしとなる。そこには正しいファクトは書かれない。なぜなら善人や正義の人が勝者になるとは限らないからだ。私たちが知っている偉人に対する逸話も実は創作だったということは多い。アメリカのジョージ・ワシントンの桜の木を伐ったという正直者エピソードも、豊臣秀吉の草履を暖めていたエピソードも後から作られた話だ。後世の小説家は、その人らしいエピソードをどんどん作っていき、それが多くの人に読まれたり、演じられたりするとその人のイメージができあがり、あたかも事実であるかのように一人歩きする。

その代表的な例が坂本龍馬である。今の坂本龍馬像のイメージは、司馬遼太郎の「龍馬が行く」から出来ている。その本の内容がすばらしくおもしろかったためベストセラーとなり、日本中に龍馬ファンが急増した。しかし、歴史小説においては、少ない事実をつなげていく接着剤は当然にフィクションである。考えてみれば当たり前で、その時代に作者は生きていないし、仮に生きていたとしても、その現場に同席はしない。後世に残った資料を調べながら、彼ならこうするに違いないとか、こうであったに違いないという筆者の思いで小説は出来ている。従って歴史的な事実からの評価からみるとその人物の軽重は異なることになる。教科書から坂本龍馬を削除するということになったのもそういう理由だろう。他にも同じような理由でテレビや小説から知名度は高いが歴史的な評価としてはどうかということで武田信玄や上杉謙信などの名も上がっている。どちらにしてもその人の実相は明智光秀と同じように違う事も多いのだ

また過去1万円札という最も高額の紙幣に使われていた聖徳太子も、今では教科書の名前も変わってしまい、厩戸王(うまやとおう、聖徳太子)となってしまった。聖徳太子は実在したのかというといなかったという説もある。なにせ今から1400年以上前の飛鳥時代の人物だ。当然に一人で10人の話しを同時に聞いたというのも後付けの話しである。今では厩戸王は実在したが、聖徳太子という人の行った「官位12階の制定」や「17条憲法」を作った人とは別の人かもしれないとわかってきたのだ。このように新しい事実の発見、視点による観察によると全く違う本当の実相が見えてくるのだ。

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自然淘汰説


自然淘汰説とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論だ。ダーウィンとウオレスによってはじめて体系化された。その考え方は単純で、個々の新しい変種、最終的には個々の新種が生み出され維持されるのは、競争相手となる種類よりも何らかの利点を有しているからである。一方、そうした利点のない種類は、ほぼ必然的に絶滅することになる。これが基本的な考え方だ。

ダーウィンの「種の起源」は、予言の書とも言われ、生物学のみならず多くの学問に多大な影響を及ぼしている。ダーウィンは、環境変化に適応したものが生き残るのではなく、たまたま生き残ったものが世代を超えて環境に適応していくと考える。そのため、厳しい生存競争を生き残っていくためには、全体としてのダイバーシティ(多様性)が重要になる。ダーウィンの言う進化とは、進歩ではなく、変化を意図している。

日本企業は100年以上継続する長寿企業が約3万3千社と世界一多い。特に製造業、小売、卸売業、宿泊・飲食業に多く、サービス業は少ない。サービス業はそのサービスの中身が大きく変化していくからだろう。

長寿企業が多い理由としては、一つは平和が長く続いたことがある。二つ目は企業活動が投機を自制したことが上げられる。家訓などで本業に徹してきたからだといわれる。しかし、その本質は事業を長く継続することが閉鎖的であった日本社会にとって何らかの利益をもたらした、つまりこれまでの日本社会に適応していたからだという自然淘汰説からの推測も出来る。従って世界に開かれた現代になると、長寿企業も厳しくなる。

最近の例でいうと、金剛組がある。飛鳥時代にできた日本最古の企業だが、倒産の危機となり、他社の支援を受けた。その他には酒屋がある。一時期焼酎というものが勢力を伸ばしてきて、造り酒屋の廃業が相次いだ。しかし、その後の品質の改良と世界戦略で新しくその地位を確立しつつある。酒の小売も形を変えた。小売の多くは、コンビニに業態変更した。昔ながらの酒屋はその姿を消しつつある。

これからわかることは、改善ではなく変化することを前提としたマネージメントをしていかないと長期にわたって生き残れないということである。さて貴社は従業員と一緒に変化できるのか、問うて欲しい。

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やりきる力


組織が成長するためにかかせないものがある。それは事業計画書で決定された役割・目標業務をやりきる力である。経営者、従業員にこれがないとどんなに練り上げられ、計算された計画もただの紙切れになってしまう。成長している企業はこのやりきる力を持っているのだ。つまり実行力の差がすべての土台なのだ。

ペンシルバニア大学のダックワース教授が、シカゴの大学で調査したところ、やり抜く力を持つ学生は退学せずにきちんと卒業していく確率が高いことが分かった。やり抜く力は後天的に身につけられる事もわかり、知識や才能がなくても強く意識して実践すれば、物事を成功に導けると言う。

ダックワース教授は、やる抜く力の要素として次の4つを挙げている。
① ガッツ:困難に立ち向かう「闘志」
② レジリエンス:失敗しても諦めずにつづける「粘り強さ」
③ イニシアチブ:自らが目標を定め取り組む「自発」
④ テナシティ:最後までやりとげる「執念」

さらにこれらの要素を伸ばすために次のことが必要だとしている。
① 興味があることに打ち込む
② 失敗を恐れずチャレンジする(挑戦せざるを得ない環境をつくる)
③ 小さな成功体験を積み重ねる。
④ 「やりぬく力」がある人のいる環境に身を置く。

さらにもう一つ大事なことがある。それはトップダウンで実施するのではないということだ。やり抜く力の4つの要素は素晴らしいことだが、他者から強要されたら大きなストレスになる。しかしそれでも自分で動こうとしない人にはどうすれば良いのだろう。

やり抜くときに大事なのは、ゴールや夢を持つことだ。一つのことを苦しいと感じずに続け、やりぬくためには夢、希望、興味、金銭などが必要だ。ビジョンの共有とよく言うが、それは会社の夢を社員が理解することであり、社員の夢もその中に同居させることである。社員の中にはそんな夢よりも今日の飯と言う人も多くいるかもしれない。そういう人達には、会社の夢に、少しの興味を持ってもらいながら、付き合ってもらうしかない。付き合ってもらえなければ会社は成立しないのだ。

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変身


カフカの小説に「変身」という作品がある。コロナ過でまた読み直されているカミューの「ペスト」という作品と並んで、不条理が個人又は集団を襲うストーリーだ。ある朝起きると主人公が毒虫になっていたという事からストーリーは始まる。ある朝突然にすべてが変わってしまうというのは小説としては面白いのだが、ダーウィンの「種の起源」にはこのような記載がある。「自然には飛躍がない」つまり、「変化は小刻みに起こる」のだ。長い年月を経て生物は大きく変化するのだが、その変化は突然に起こるのではなく、長い時間をかけて少しずつ変化した結果であるというのだ。

企業を経営する時に経営者はともすれば早い変化、結果を求める。しかし、それは一見よいように見えても、人間の理に合っていないとうまくいかないことが多い。またうまくいったように見えても、実は時間が経つと元の木阿弥に戻ってしまう。それは人は急に変われないからである。目標とする形にまでもっていくためには、その間にいくつもの小さな変化をかませないといけないのだ。いわゆる名経営者という人は、小さな変化を多く起こしている人なのだ。時間をかけた飛躍のない経営というものが後で飛躍的な変化をもたらすのだ。

飛躍がないというのは、成長がない、変わらないということではない。確実に少しずつ企業風土を変えていくことである。その変化が企業の永続を保証していくのだ。企業の組織論もいろんな理論がタケノコの様に生まれてくる。その中から実態にあったものが選ばれていくのだ。

皆時代に合わせて自分自身を変えていきたいと考えていると思うが、その変身の鍵は、意外なところに存在する。「天は、二物を与えず」ということわざがある。「天の神様は一人の人間にいくつもの美点を与えることはないので、良いところばかりの完璧な人間は存在しない」という意味だが、逆に考えてみると、天は誰にでも一物は与えているわけだ。つまり、この世の人はすべて天から与えられた自分の一物を磨いていくことにより、他の人から見ると素晴らしい人、または企業だと思われるようになるのだ。

自分又は企業の長所とどう向き合い、伸ばしていくか。飛躍のない確実な思想と戦略が必要とされる。短期間で得られたものは、短期間で失われ、長い間を経て得られたものは、自分たちの血肉となって永続する。どう変身するかには哲学が必要だ。

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