コラム

目に見えない人は世界をどうみているのか


伊藤亜紗さんという美学者の「目に見えない人は世界をどうみているのか」という本を読んだ。まず伊藤さんの専門の美学という学問があることを知ったのだが、彼女によるともやもやとした、はっきりと説明できないような事柄を明確に説明する学問だそうだ。

視覚障害者は厚生省の発表によると約32万人いるらしいが、身体又は知的な障害のある人の数は2018年の発表では936万人いるらしい。障害者の多くは、自分の障害を個性と捉えている。アメリカでは最近黒人への差別に対してデモなどが行われているし、大坂なおみさんもそのことについて述べているが、黒人、白人。黄色人種も個性だと思う事と、障害も個性だと思うことは基本同じだと思う。つまり、自分と他人との外見上の差を捉えて差別するわけだが、立場を逆にしても同じように思えるのだろうか。私たちが今こうして生まれているのは、単なる偶然に過ぎない。

以前、「人は見かけが9割」という本を読んだ。現実の社会では、人は見かけで判断されるという事だ。それは現実だろうと思うが、これについては教育などによる克服が必要で、人種も、民族も、宗教も、障害者もがグローバルに混ざり合う今世紀の重要課題になるとも思う。人類が克服すべき課題なのだ。

伊藤さんも障害とは何かについてこう意見を述べている。「障害者というと、一般的には『目が見えない』とか、『足が自由である』とか、『注意が持続しない』とか言った、その人の身体的、知的、精神的特徴が『障害』だと思われているが、実際に接して見ると、この根強いこの障害のイメージに強烈な違和感を感じる」と言っている。この意味での障害はその人個人の「能力の欠如」を示すモノで、そのため触れてはいけないものと感じてしまう。しかしこういうイメージは産業社会の発展と共に生まれたもので、労働の画一化により生まれたものらしい。それまでは、障害者には彼らに出来る仕事が割り当てられていたのだ。また障害を笑うユーモアとゆとりもあった。

また最近は見えない人の美術鑑賞という試みも行われている。目に見えない人がどうやって絵画を鑑賞するのか?それは目が見える人と一緒に言葉で鑑賞するのだ。目の見える人はどう言葉で表現して、それを聞く視覚障害者にどう伝えれば伝わるのかを考える。つまり「セッション」を皆で行うわけだ。これにより目の見える人もより深く絵画を鑑賞できることになるらしい。すべての人に前の窓は開いていると感じる。

渕上コラム「変える言葉」