コラム

公平性とは何か


ワクチンをめぐってのドタバタから少し気になることがあった。それは、「公平」とは何かということだ。例えば一国の総理大臣がワクチンを打つのに、アメリカに行ってバイデン氏に会うために必要だったと言っている。人間の価値は平等だが、人の置かれた役割で、その人がもしコロナにかかって死亡若しくは長期にわたり隔離をされると、社会に大きな影響を与える人は優先して打つのは当たり前のような気がする。現に医療従事者に優先摂取するのは、患者に接するという面もあるが、彼らがかかると社会に大きな影響があるからだ。そういう面ではこの世の中の日常生活を送るために必要なエッセンシャルワーカーも医療従事者と同じだ。

日本における公平は言葉だけが独り歩きをして目的が失われているように思われる。何の目的を達成するため「公平性」ということを重視するのかということだ。今回も予約をして来なかった人のワクチンを捨てる事件が多発した。公平性からみて予約している人以外に摂取するのはだめだということらしいが、普通に考えればワクチンはコロナ克服の最も重要なツールで、余れば捨てるより誰にでも摂取したほうがよいと思うのだが、余分なことはせずに捨てたということらしい。指示がなければ上に聞けばよいと思うのだが、目的を意識しない判断は対処を間違える。

公平性とは、すべてのものを同じように扱うという意味だが、そのとらえ方に注意が必要だ。まず、完璧に公平な摂取ということはありえないということだ。例えば高齢者ということで65歳から早期摂取できるが、64歳の人はどう考えるのだろうか?65歳は国の制度上の高齢者でしかない。ネットで予約を取らせることは、チャンスを同様に与えるから公平だというが、ネットを使える人、使えない人、ネット出来るその時間に仕事をしている人、フリーな人、病気で寝ている人、個人の状況はあたり前のことだが、皆違う。目的から考えれば市町村が日時と場所を指定すればよいし、それと別に自由に摂取できる状況を作ればよいのだ。何日か遅れるということは全く問題ではない。問題は国全体としての摂取の促進なのだ。
 
また一番の不公平は公務員、年金生活者などコロナで収入が減少していない人と、影響を直接受けている飲食店、宿泊業界、アルバイトなどに係る人の差だ。一方は収入が減らない。一方はいつつぶれるか、いつまで食べていけるか、学業を続けられるかなど大変な状況にある。早く資金を出して助ける必要がある。本人の置かれた状況による差、これこそが最大の不公平なのだ。

渕上コラム「変える言葉」