コラム

崩れ落ちる努力


コロナ感染の拡大について政府の対応の不手際が目立つ。ウィルスの遺伝子解析でわかったことがある。今日本で猛威をふるっているウィルスは、ヨーロッパ由来のものらしい。当初の中国由来のものは押さえ込んだということが分かった。つまり、政府は武漢のウィルス対策に総力を挙げたが、武漢から世界各地へ飛び火したウィルスにはまったく対応が出来ていなかったということになる。簡単に言うと想像力の欠如である。たぶん現場の出入国管理の職員は中国以外の国からの感染も理解していたのではないかと思うが、現場の声は上には届かなかったのだろう。

また私は政府の出す戦略は間違っていると思っている。政府は「コロナに罹って失われる命」を減らすことを戦略に上げている。耳障りは良いが、これは明らかにおかしい。最上位に上がるべきは「国民の命と生活を守る」でないといけない。この国民の生活が上がっていないのは、もしかしたら意図的かもしれないのが怖い。つまり、補償ということをしない、つまり国民の生活を補償したくないということが最初にあるとしたら、すごく嫌な話だ。国難に財務省が足かせとなっていたら、今の政治家は必要なのだろうか?

これも想像力の問題だが、もしこの国難に対し、国民の生活の補償を命と一緒に目標にしなかったらどうなるか考えて欲しい。これまで数十年から数百年にわたり積みあげてきたおいしくバラエティに富んだ日本中の飲食店、温泉旅館、その他の観光施設の多くが消滅し、それらの施設に食材を提供していた農水産業の多くもなくなるかもしれない。復元にどれくらいの年月がかかるのだろうか?そのためどれだけの雇用が失われるのだろうか?しかし、たぶん元には戻らない。観光立国を目標にしていたのは他ならぬ国ではなかったのか。しかし、窮地に陥った国民の生活を守り、企業を守れば、いつかコロナ問題が終息した後はすぐに元の状態に戻れ、税収も伸び、国家と国民双方が守られると思うが、それをしないとこれまでの努力が、コロナという大災害により崩れ落ちて無になってしまう。国家は国民から成り立っているのではないのか。

国会の議論などを見ても不思議なのは国民にソーシャルディスタンスを守れと言っていても、議員は守ってはいない。安部首相の後ろに控える役人はいつも並んで座り、マスクをして隣と話し合っている。国会の換気が悪ければ3密だ。このチグハグな感じは何だろう。テレビも写るところは距離をとってやっているが、テレビに写っていないスタッフについてはどうなのだろう。国民は冷めた目で見ている。

渕上コラム「変える言葉」