コラム

視点


NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が2月7日に最終回を迎える。最近あまり大河を見なかったのだが、明智光秀が主人公ということで、どんな視点で演じらせるのだろうという興味で見てしまっていた。

よく言われているが、過去の歴史は勝者の書かせた歴史であり、当然に敗者のことは悪く書かれ、勝者は良く書かれている。通常敗者は亡くなっているので、死人に口なしとなる。そこには正しいファクトは書かれない。なぜなら善人や正義の人が勝者になるとは限らないからだ。私たちが知っている偉人に対する逸話も実は創作だったということは多い。アメリカのジョージ・ワシントンの桜の木を伐ったという正直者エピソードも、豊臣秀吉の草履を暖めていたエピソードも後から作られた話だ。後世の小説家は、その人らしいエピソードをどんどん作っていき、それが多くの人に読まれたり、演じられたりするとその人のイメージができあがり、あたかも事実であるかのように一人歩きする。

その代表的な例が坂本龍馬である。今の坂本龍馬像のイメージは、司馬遼太郎の「龍馬が行く」から出来ている。その本の内容がすばらしくおもしろかったためベストセラーとなり、日本中に龍馬ファンが急増した。しかし、歴史小説においては、少ない事実をつなげていく接着剤は当然にフィクションである。考えてみれば当たり前で、その時代に作者は生きていないし、仮に生きていたとしても、その現場に同席はしない。後世に残った資料を調べながら、彼ならこうするに違いないとか、こうであったに違いないという筆者の思いで小説は出来ている。従って歴史的な事実からの評価からみるとその人物の軽重は異なることになる。教科書から坂本龍馬を削除するということになったのもそういう理由だろう。他にも同じような理由でテレビや小説から知名度は高いが歴史的な評価としてはどうかということで武田信玄や上杉謙信などの名も上がっている。どちらにしてもその人の実相は明智光秀と同じように違う事も多いのだ

また過去1万円札という最も高額の紙幣に使われていた聖徳太子も、今では教科書の名前も変わってしまい、厩戸王(うまやとおう、聖徳太子)となってしまった。聖徳太子は実在したのかというといなかったという説もある。なにせ今から1400年以上前の飛鳥時代の人物だ。当然に一人で10人の話しを同時に聞いたというのも後付けの話しである。今では厩戸王は実在したが、聖徳太子という人の行った「官位12階の制定」や「17条憲法」を作った人とは別の人かもしれないとわかってきたのだ。このように新しい事実の発見、視点による観察によると全く違う本当の実相が見えてくるのだ。

渕上コラム「変える言葉」