コラム

パラリンピックへの期待


パラリンピックの開会式を見た。自国開催でなければ絶対見なかったと思うが、初めて見てびっくりした。多様性という意味で、オリンピックよりオリンピックらしかったのだ。 オリンピックの開会式は、いろんな人から意味がよくわからないなど批判が多かったし、個人的にも他国のオリンピックの開会式と比べると少し物足りなかった。しかし、パラリンピックの開会式には最初からひきつけられた。

オリンピックではいろんな人種・民族が衣装などで表現されているが、パラの場合は一目見て世の中の多様性が理解できる。手がない人、足がない人、小人、目が見えない人、その他日常の生活ではあまり会えないような人がずらりと並んで出演している。そしてそういう障がい者が世界の人口の15%がいますと世界に向かって告げていた。考えてみるとこれはすごい数だ。この世に生を受けた時から障がいがある人、普通に生まれたが病気やけがで障害を持つようになった人などさまざまな原因で誰でも障害を持つ可能性はある。障害を持った後にどう生きるかということの大切さを理解した。障害を持つアスリートにまったく暗さや卑屈さは感じられなかったからだ。

10年ほど前、中国に行くことがあり、帰りの飛行機で障害のある男の子と母親と話しをしたことがある。母親によると、いろんな国に障害を持つ子と一緒に旅行しているが中国は最低だ。なぜなら平気で障害のある子供を指さし、大きな声で話をしていると言っていた。国の成熟度は社会的弱者に対しての対応でわかるというが、そういう意味では中国はまだ途上国なのだろう。

私が大学の頃、部活で少し障がい者と接することがあった。当時は障がい者の施設の多くは人目に触れない山の中などにあった。人目に触れるとかわいそうだということらしいが、それはある意味そういう普通の人と違う人を隔離するという意味もあったようだ。それが現在は町の中で、健常者と混じりあって生活するようになってきた。障がい者に対し、見られると可哀そうだから他人と接しないようにすべきと他人が言うことは明らかに間違いだ。障がい者の人は、へんな気を使ってほしいのではなく、普通の人と同じように接してほしいということだ。そして助けが必要な時は助けてほしいとのだ。考えれば困った人を見れば、必要な時は助ける。ごく普通のことだ。ある障がい者は著書の中で、冗談で「お前の手は***か」などといじって欲しいと言っていた。そういう関係性を作れれば最高だ。つまり障がい者も普通の人もオリンピックの選手も、基本皆同じ人間で、それぞれに特徴があるということだ。多様性は人類を救うと信じている。

渕上コラム「変える言葉」