コラム

コロナウィルス協奏曲


先週、国の緊急事態宣言が東京・埼玉・千葉・神奈川の東京圏と大阪・兵庫の関西圏、そして福岡に出た。日本はまさにコロナ一色になっている。普段はあまり神経質でもない人までコロナに関してはナーバスになっている。まさに戦時と同じ様相を呈している。コロナに無関心な若い世代には批判しかない。大都市と事情の違う地方都市でも、客の消えた飲食店(接客は伴わない)に行くというとやめたらと言われる。ビートたけしが電車で咳をすると、隣の人が移動すると言っていた。しかし、実際に飲食店に行くと客はほとんどいないし、店も消毒などかなり気をつかっている。それでも営業に対して批判的な意見が多い。少し斜視に構えて検討してみよう。

まず考えなければならないことは、これはある種の天災であるということである。コロナに罹る人も、自粛要請で店を閉める飲食店も、学校が休校になり、教育を受けられなくなった子供達もすべて被害者であるということだ。そこには二つの課題がある。一つはコロナウィルスの蔓延を防ぐためにどうすれば良いかということ。もう一つはそのために生じる損害をどう担保するのかということである。つまり、目の前の直接的なコロナによる死亡という被害と、それによって起こる将来の間接的な被害、つまり経済的に追い詰められて破綻又は死亡するという被害への対応をどうするのかということになる。経済が悪化すると自殺率が増えるのは確認されている。これからどれ位の企業が倒産・廃業するのだろう。考えて見るとぞっとする。

冷静に数字を確認してみると、新型コロナウィルスによる死亡者は、日本で81人、世界で約7万3千人(4月8日現在)、これに対し、通常の季節性のインフルエンザの死者は、日本だけで1年に約3300人、世界で29万人~64万人(CDC発表)と言われている。これだけを比較すると新コロナウィルスだけなぜ神経質に対応するのかという疑問が出てくる。この答えははっきりしている。致死率と感染率がまったく違うからだ。新コロナが日本や世界に蔓延すると比例して死者数が急激に増加することになる。特に医療崩壊を起こすとそうなることは分かっている。

そこで感情を抑えて問題を見ると、コロナがなければつぶれなかった企業・社員をどう救うかに半分の比重をかけるべきであると思う。なぜなら、コロナ問題が収束すれば、彼らが事業を継続、働くことができるかということが重用だ。もし救わなければどれほどの経済的損失になるのだろう。今見える問題と将来の見えない問題の両方の対処が求められる。今の日本政府の対応はおぼれかかった人を助けられない。

渕上コラム「変える言葉」