コラム

0ではない


世の中のコロナ騒ぎはまだまだこれからも続きそうだが、テレビの報道を見ていて一つ気になることがある。それは「0ではない」という言葉だ。この内容を別の言葉で言うと「普通なら大丈夫と思われるが、何が起こるかわからないからこういう言い方をしないと、責任問題になる」となる。しかし、これを聞く人は0でないということは、あるととってしまうことになる。その結果、世の中がますます窮屈に回っていくことになる。

最近では、野外で活動するサーファーに自粛を求めるためかどうか知らないが、サーファーのはく飛沫がもとで感染するリスクがあるかもしれない(つまり0でないという意味)という記事も新聞に載っていた。こういうことから感じるのは科学的なエビデンスがどこまであるのだろうということだ。今は自粛をを後押しする意見はなんでも通るような気がする。そのうち、家にいないと非国民といわれそうだ。

しかし、リスクの世界では大きなリスクから順次対応していくというのが基本的ルールだ。小さなことまでやろうとすると逆に本質から遠ざかり、国民にストレスばかり与えてしまう。一番大きな問題は、誰が考えても都市部の電車だろう。電車を止める法律がないからと皆いっているが、インフルエンザ特措法も対応できないから法改正をした。それなら電車も法改正できないのだろうか?それがダメなら満員電車にならないようにどうしたら良いのか検討すべきではないだろうか。世の中には様々な知恵を持っている人がいる。広く知恵を求めるべきではないかと思う。少なくとも政府や役人にその知恵はないようだからだ。

例えば「自粛を求める」ではなく、休んでも食べていけるようにすれば、自然と休むようになるのだが、中小企業は補償なしに休むと食べていけないので、どんなに自粛を言われても休めないのだ。これから大量の失業者がでると思われるが、失業手当ではなく、名目はなんでも良いが休んでも食べていけるようにしていけば、既存のビジネスは守られる。コロナ禍が去ったときに、すぐに元にもどれる仕組みはキープされる。しかし、政府がお金を出し渋って中小企業をつぶし、多くの雇用を失わせた場合は、その代償は大きく、経済は長期にわたり停滞し、結局政府の歳入は減り、支出は増える事になる。こんな自明な事が分からないほど政府は金属疲労を起こしているのだろうか。これもリスクからみると、国民を救う実効性のある政策がリスクを大きく下げることになる。リスクはコロナだけでない。コロナの後ろに倒産・失業・自殺・ストレスからくるDV,運動不足からくる病気など多くのものが待ち受けているのだ。

渕上コラム「変える言葉」