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コロナのゴールデンウイーク


ゴールデンウイークに小旅行に出かけて見た。まず感じたのは日本人のまじめさ、それも言われたこと以上のことをする国民性だ。それにいわゆる「世間の目」をすごく意識するし、相手にも要求する。つまり同調圧力が強いということだ。政府や県・市町村・マスコミもそれを意識して発表または放送すべきだ。そのいきすぎた事例が自粛警察だろう。徳島で県外ナンバーのチェックもあったと聞くが、県外ナンバーなんて地元に住んでいる人でも当たり前にあるのに、そこまでは考えられない。

またテレビで歯科での感染リスクを放送した後は、歯科の受診がかなり減ったらしい。歯科医に聞くと全国約7万件の歯科診療で一人の感染も発生していないというのに、この放送で歯科は大きな被害を受けた。放送の責任はどうなるのだろう。感染症の学者はまじめに可能性を述べているし、その内容はウソではない。しかし、それにより大きな被害を受ける。どういう内容での発表や放送をするべきか考えて欲しい。これも風評被害になるのかもしれないが、一度噂が出ると簡単に消すことはできない。ジムやカラオケなども具体的な業種も言っているが、少なくともこれは補償をセットすべきだろう。

私は四国を回ったが、まず公共の観光施設、民間の観光施設共見事に閉まっている。ホテルも自粛要請がきたので、すいませんが閉めますという所もあるし、開けないと生活もあるというところもある。当然にそういう状況で客は少ない。ほぼ数組と言った調子で、ソーシャルデスタンスは十分だし、食事も手指の消毒から始まって、配膳係はマスクにプラスティック手袋と配慮が行き届き、逆にこれではコロナはないなという感じだ。これだけの努力をしていて、かつ宿泊施設や通常の飲食店で多くのクラスターが発生しているわけではないのに、可能性としての話で自粛となる。しかし、そのための補償はないか十分でない。

間違いなく感染の温床である大都市の満員の電車は動かす。その理由はそれがないと通勤ができずに多くの人が困るからと言うことだが、地方の頑張っている人達が困ることは念頭にないのだろうかと思ってしまう。ステイホームと言うが、これは明らかに感染者の多い地域の人についてであり、感染者の少ないかいない地域の人についてではない。今県をまたがる移動についてまだ自粛を継続して欲しいといっているが、特に特定警戒都道府県とそれ以外の地域との移動を警戒しているのだろう。日本全体を一律に扱うということは、どれだけの負担を地方にさせることになるのだろう。過ぎたるは及ばざるがごとしである。

渕上コラム「変える言葉」
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崩れ落ちる努力


コロナ感染の拡大について政府の対応の不手際が目立つ。ウィルスの遺伝子解析でわかったことがある。今日本で猛威をふるっているウィルスは、ヨーロッパ由来のものらしい。当初の中国由来のものは押さえ込んだということが分かった。つまり、政府は武漢のウィルス対策に総力を挙げたが、武漢から世界各地へ飛び火したウィルスにはまったく対応が出来ていなかったということになる。簡単に言うと想像力の欠如である。たぶん現場の出入国管理の職員は中国以外の国からの感染も理解していたのではないかと思うが、現場の声は上には届かなかったのだろう。

また私は政府の出す戦略は間違っていると思っている。政府は「コロナに罹って失われる命」を減らすことを戦略に上げている。耳障りは良いが、これは明らかにおかしい。最上位に上がるべきは「国民の命と生活を守る」でないといけない。この国民の生活が上がっていないのは、もしかしたら意図的かもしれないのが怖い。つまり、補償ということをしない、つまり国民の生活を補償したくないということが最初にあるとしたら、すごく嫌な話だ。国難に財務省が足かせとなっていたら、今の政治家は必要なのだろうか?

これも想像力の問題だが、もしこの国難に対し、国民の生活の補償を命と一緒に目標にしなかったらどうなるか考えて欲しい。これまで数十年から数百年にわたり積みあげてきたおいしくバラエティに富んだ日本中の飲食店、温泉旅館、その他の観光施設の多くが消滅し、それらの施設に食材を提供していた農水産業の多くもなくなるかもしれない。復元にどれくらいの年月がかかるのだろうか?そのためどれだけの雇用が失われるのだろうか?しかし、たぶん元には戻らない。観光立国を目標にしていたのは他ならぬ国ではなかったのか。しかし、窮地に陥った国民の生活を守り、企業を守れば、いつかコロナ問題が終息した後はすぐに元の状態に戻れ、税収も伸び、国家と国民双方が守られると思うが、それをしないとこれまでの努力が、コロナという大災害により崩れ落ちて無になってしまう。国家は国民から成り立っているのではないのか。

国会の議論などを見ても不思議なのは国民にソーシャルディスタンスを守れと言っていても、議員は守ってはいない。安部首相の後ろに控える役人はいつも並んで座り、マスクをして隣と話し合っている。国会の換気が悪ければ3密だ。このチグハグな感じは何だろう。テレビも写るところは距離をとってやっているが、テレビに写っていないスタッフについてはどうなのだろう。国民は冷めた目で見ている。

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ジャパンハート


世の中には素晴らしい人が必ずいる。カンブリア宮殿でそういう人を見つけた。ジャパンハートの代表の小児外科医の吉岡秀人氏だ。アジアの貧困地帯での医療を無料で実施してきた医師で、地元の大分大学の出身者だ。一緒に参加する医師や看護師などのスタッフも自分で旅費・宿泊費など経費を支払い、しかも無給である。それなのに希望者が後を絶たない。

彼の言葉には医者という命と向き合うからなのか本質をつく言葉が多い。お金についてはこう言っていた。「お金は山を登るときの靴だ。良い靴を履かないと、足は痛い。そろりそろりと歩かなければいけない。しかし、良い靴を履くと一気に山を駆け上がれる。お金があると目指すところへ一気に登っていける」彼の目には常に山頂(目標)が見えているのだろう。

又、こういう言葉も印象に残っている。「皆がなぜ幸せになれなったか?それはいつも与えてもらってばかりだからだ。自分が人に与えられるようになれば幸せになれる。」けだし名言である。世の中には自分が人に何を与えているかは考えずに、とにかく欲しがる人が多い。そういう人には、相手にもっと自分のためにして欲しいという他力本願が見え隠れする。

人に与えられる人は幸せだ。子供を持った母親、社会福祉を実践する人、寄付をする人、アイドルの支援をする人などたくさんいる。特に私の心に今も残っているのは、障がい者が生まれてきたあるお母さんだ。友人ではあるが、他人の私は障がいを持った子が生まれて大変だなと思っていた。しかし、その子を抱きお母さんが「本当にこの子可愛いんですよ。生まれてきてくれて良かった」と話されたとき、頭の中からそれまでの障がい者に対する偏見(そうは思っていなかったが)が吹き飛んだ。それ以来、そのお母さんは自分の子だけでなく、同じような境遇の多くのお母さんと一緒に子供達のために奮闘している。たいへんと思うだろうが、本人は幸せだ。

つまり他人に何も与えない、与えられるだけの人生を望む人は、不幸せな人生を希望していることと同じなのだ。顔を見てみるとわかる。皆さんの周りでどういう人が幸せな顔をして、どういう人が不幸せな顔をしているだろう。不幸せな人は結局自分で自分の人生をそうしているのだ。そういえば塩野七生さんがこう言っていた「人生では、まず山に登ることが大事だ。どのやまに登るかは関係ない。まず登ること」

つまり人に与える人は、山に登ることになる。より困難な状況を経験することになる。それは避けることが出来ない。なぜなら、新しい状況を選ぶからだ。これに対し与えない人は、山に登らない。

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0ではない


世の中のコロナ騒ぎはまだまだこれからも続きそうだが、テレビの報道を見ていて一つ気になることがある。それは「0ではない」という言葉だ。この内容を別の言葉で言うと「普通なら大丈夫と思われるが、何が起こるかわからないからこういう言い方をしないと、責任問題になる」となる。しかし、これを聞く人は0でないということは、あるととってしまうことになる。その結果、世の中がますます窮屈に回っていくことになる。

最近では、野外で活動するサーファーに自粛を求めるためかどうか知らないが、サーファーのはく飛沫がもとで感染するリスクがあるかもしれない(つまり0でないという意味)という記事も新聞に載っていた。こういうことから感じるのは科学的なエビデンスがどこまであるのだろうということだ。今は自粛をを後押しする意見はなんでも通るような気がする。そのうち、家にいないと非国民といわれそうだ。

しかし、リスクの世界では大きなリスクから順次対応していくというのが基本的ルールだ。小さなことまでやろうとすると逆に本質から遠ざかり、国民にストレスばかり与えてしまう。一番大きな問題は、誰が考えても都市部の電車だろう。電車を止める法律がないからと皆いっているが、インフルエンザ特措法も対応できないから法改正をした。それなら電車も法改正できないのだろうか?それがダメなら満員電車にならないようにどうしたら良いのか検討すべきではないだろうか。世の中には様々な知恵を持っている人がいる。広く知恵を求めるべきではないかと思う。少なくとも政府や役人にその知恵はないようだからだ。

例えば「自粛を求める」ではなく、休んでも食べていけるようにすれば、自然と休むようになるのだが、中小企業は補償なしに休むと食べていけないので、どんなに自粛を言われても休めないのだ。これから大量の失業者がでると思われるが、失業手当ではなく、名目はなんでも良いが休んでも食べていけるようにしていけば、既存のビジネスは守られる。コロナ禍が去ったときに、すぐに元にもどれる仕組みはキープされる。しかし、政府がお金を出し渋って中小企業をつぶし、多くの雇用を失わせた場合は、その代償は大きく、経済は長期にわたり停滞し、結局政府の歳入は減り、支出は増える事になる。こんな自明な事が分からないほど政府は金属疲労を起こしているのだろうか。これもリスクからみると、国民を救う実効性のある政策がリスクを大きく下げることになる。リスクはコロナだけでない。コロナの後ろに倒産・失業・自殺・ストレスからくるDV,運動不足からくる病気など多くのものが待ち受けているのだ。

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コロナウィルス協奏曲


先週、国の緊急事態宣言が東京・埼玉・千葉・神奈川の東京圏と大阪・兵庫の関西圏、そして福岡に出た。日本はまさにコロナ一色になっている。普段はあまり神経質でもない人までコロナに関してはナーバスになっている。まさに戦時と同じ様相を呈している。コロナに無関心な若い世代には批判しかない。大都市と事情の違う地方都市でも、客の消えた飲食店(接客は伴わない)に行くというとやめたらと言われる。ビートたけしが電車で咳をすると、隣の人が移動すると言っていた。しかし、実際に飲食店に行くと客はほとんどいないし、店も消毒などかなり気をつかっている。それでも営業に対して批判的な意見が多い。少し斜視に構えて検討してみよう。

まず考えなければならないことは、これはある種の天災であるということである。コロナに罹る人も、自粛要請で店を閉める飲食店も、学校が休校になり、教育を受けられなくなった子供達もすべて被害者であるということだ。そこには二つの課題がある。一つはコロナウィルスの蔓延を防ぐためにどうすれば良いかということ。もう一つはそのために生じる損害をどう担保するのかということである。つまり、目の前の直接的なコロナによる死亡という被害と、それによって起こる将来の間接的な被害、つまり経済的に追い詰められて破綻又は死亡するという被害への対応をどうするのかということになる。経済が悪化すると自殺率が増えるのは確認されている。これからどれ位の企業が倒産・廃業するのだろう。考えて見るとぞっとする。

冷静に数字を確認してみると、新型コロナウィルスによる死亡者は、日本で81人、世界で約7万3千人(4月8日現在)、これに対し、通常の季節性のインフルエンザの死者は、日本だけで1年に約3300人、世界で29万人~64万人(CDC発表)と言われている。これだけを比較すると新コロナウィルスだけなぜ神経質に対応するのかという疑問が出てくる。この答えははっきりしている。致死率と感染率がまったく違うからだ。新コロナが日本や世界に蔓延すると比例して死者数が急激に増加することになる。特に医療崩壊を起こすとそうなることは分かっている。

そこで感情を抑えて問題を見ると、コロナがなければつぶれなかった企業・社員をどう救うかに半分の比重をかけるべきであると思う。なぜなら、コロナ問題が収束すれば、彼らが事業を継続、働くことができるかということが重用だ。もし救わなければどれほどの経済的損失になるのだろう。今見える問題と将来の見えない問題の両方の対処が求められる。今の日本政府の対応はおぼれかかった人を助けられない。

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大局観


時代が大きく動いていくときには大局観が欠かせない。新しい時代の経営戦略は常に未知との闘いである。従って、将棋や碁のように現在の局面(部分)から将来(全体)を推測して方針を決定せざるを得ない。その時の重要なキーはテクノロジーの問題だ。

アメリカにイーロン・マスク氏の作ったテスラという自動車メーカーがある。創業から13年でアメリカ最大のGMを抜き全米トップに立ち、2020年の1月時点でトヨタに次ぐ世界第二位の時価総額に躍り出た。多くの人のテスラのイメージは環境に優しい電気自動車を提供している会社ということだろうが、テスラが並み居る他の自動車会社の中で突出しているのはその経営戦略の独自性にある。一つは車にソフトウエアーを登載している。スマホのアプリに似たもので、旧型のモデルでも常に最新のシステムを使えるようになっている。もう一つはビッグデータの集積である。

テスラの戦略は、エクスペリエンス戦略という。マーケットインでもプロダクトアウトでもない、その二つをうまくつなぐ思考法で、ユーザーが得られる体験や感動を想像しながら製品やサービスの開発にあたるということだ。実はスターバックス、アップルなども同じ思考法で戦略を作っている。つまり感動が顧客を呼ぶのだ。

今、IT・AI・フィンテック・ブロックチェーンなどの新しいテクノロジーの進化により、あらゆる業界で人の価値の低減が起こっている。ロボット化などで製造業の革新は先行して進んだが、これからは事務職、銀行員など多くの職種にも及ぶと予想されている。しかし、現実は常に予想を上回る形で進行する。最近は営業職の人が新しいテクノロジーに仕事を奪われている。2001年から2018年の間に約100万人の営業マンが仕事を失っている。常にテクノロジーが現実のハードルを越えていっているのだ。

身近で思い出すのはネットで靴や服を購入するというZOZOTOWNが出来たときである。靴は履かないと分からないだろう。服は着ないとわからないだろうと思っていたが、あっという間に若者を中心に受入れられて行き、前沢社長は月に行くことが出来るようになった。同じようにこれからも私たちの想定を超えて新しいテクノロジーを駆使した事業が立ち上がっていくのだろう。それらが使えない人はどうすればよいのか。誰も安閑としてはいられない。テクノロジーに文句を言っているのは、自分自身の能力欠如に対する

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医師 中村哲


都会へ出張する時の楽しみの一つが本屋である。都会には大きな本屋が必ずあり、時間があるときは寄って、5~10冊程度の本を購入、重たい荷物を提げて帰ることが多い。その場合に購入するジャンルは、自分の専門関係、今の話題の本、それからジャンルは問わず興味を引かれた本だ。今回は医師中村哲氏の「天、共に在り。アフガニスタン30年の闘い」という本が棚に山積みされていたので買った。

中村氏は、昨年アフガニスタンで銃撃にあって亡くなったことは知っている人は多いと思うが、実は彼は医師でありながらアフガニスタンに1600本の井戸を堀り、25キロに及ぶ用水路を作った。なぜ彼が医師で在りながら、そういうことをしたのかということに興味があった。

彼は38歳の時、日本キリスト教海外医療協力会から医師として派遣され、パキスタンのペシャワールに赴任して活動した。その後アフガニスタンに活動の軸足を移し、誰もが行くことを嫌がるような僻地に医師として行くことを希望した。その後は自分で組織を立ち上げアフガニスタンの人々のために長年にわたり尽力した。趣味は昆虫と山だそうで、福岡の山岳会のヒンズークッシュ(7708㍍)遠征隊に参加したことが一つのきっかけだったようだ。最初は現地のハンセン病の治療のため山奥に診療所を作り、最終的に井戸や用水路を掘るにいたる。それは、いくら病気を治そうとしても、その病気が起こる根本である水の問題、また病気をもたらす貧困のもとである食料の問題を解決しないと先に進まないと考えたからである。ここに彼の真骨頂がある。普通の医者なら医療を提供するだけなのに彼はその先に進んだのだ。それは困難との闘いであるが、確実に人々を飢えから、そして病気から救う道だったのだ。

彼の生き方を学んでふと思い出したのが、渡辺昇一著の「歴史の鉄則」に書いてある税理士の金魚鉢の金魚論である。つまり税を語る本というのは、節税方法とか申告方法を述べた技術論ばかりで、枝葉末節なものが多い。税理士や税務署の役人、税金専門の学者は今の税体系中で生きている金魚鉢の金魚のようなもので、その人達の話しを聞いても何ら根本的な解決にはならないというものだ。

中村医師は医者という金魚鉢から出て、アフガニスタンの農民を根本から救うために井戸を掘り、用水路を作った。それはかれらが心から望んだもので、多くの人々が心から彼の死を悼んだのだった。惜しい人を亡くした。

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理想の会社Ⅱ


理想の会社についてもう少し述べよう。政府はいつも画一的な見方をしがちで、以前は日本の企業の代表である製造業を標準としていろんな政策を決めていた。しかし最近では一つ気になることがある。それは今の日本人は若者から老人まで考えも好みも全く違うということだ。同じ若者でもとにかく頑張って給料を上げたいという若者から、給料は少し安くても自由時間が多い方がよいという若者、高額な収入を得ている若者から、年収200万以下の若者まで様々だ。

老人も歳をとっても同じように働きたいという人から、孫の世話をしたい、庭いじりをしたい、旅行をしたいなど様々だ。死ぬまで働く人から、定年後長い老後を過ごす人までおり、家族関係も一人暮らし、孫達と一緒とバラエテイにあふれている。これだけ生活が多様化している時代に、働く人の受け皿としての企業はどのような多様性を持たせることができるのだろうか。逆に言うとこれからの理想の会社とは、個人の多様な生き方を受け入れる会社で、理想の社会とは企業の様々な就労スタイルを認める社会であるとも言える。

これからの企業は、まず経営理念を明確にすることが重要だ。もちろん経営理念は目指すもので、現状はまだブラック企業という事もあるだろうが、そこはSNSの発達した時代、すぐわかるだろう。大事な事はこういう会社にしたい、その実現に協力して欲しいということだ。「給料が高くて、仕事が楽な会社が理想」というような小学生のような意見はある意味気持ちはわかるが、そんなことはできないことは大人なら皆分かっている。これからの若者は、意外と大変でも企業の理念に共鳴して働きたいという人も増えているような気がする。

経営理念を考えることは大変むつかしいことではある。しかし、お金を稼ぐ以外に社会的な役割、かかわり方を考えるのが経営理念である。食べるために働くというポジションはどの時代にも多い。しかし、私たちは仕事を通じて社会に役立てるということが明確な時代に生きている。食うや食わずの時代ではない。今の時代の貧乏は昔の本当の貧乏ではない。生活保護制度も整っている。しかし、今の高齢者は自分たちが生きた終戦後の本当に大変な何もない時代の考えをそのままどこかに持っており、教育者は戦時中の厳しい教育体制をそのまま引きずっている。本当に時代は変わっていっているが、変化を嫌がる高齢者が亡くなるまで待っていては、今の若者の幸福感は得られない。幸福度ランキング58位(2019年)という実態が今の状況のすべてである。

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理想の会社


会社経営へのアプローチには二つのスタイルがある。一つは現実からのアプローチ、もう一つは社長の目指す理想から入るアプローチだ。

現実からのアプローチは波風は立ちにくく、社員にも受け入れられやすいが、新しい価値を社会に提供するということはない。そのため時代が変わっていく中で、若い社員や女性に受け入れられ、社会を幸福にしていくという価値は作りにくい。一方理想の会社から入るアプローチは、うまく経営できれば、社会に大きな価値をもたらし、人の採用に困らなくなるというメリットがあるが、社員がそれを当たり前と考えてしまうと会社の業績は上がらないというデメリットがある。

最近新聞で病気でも休めない、大雪が降っても休めない人が多いという記事を見た。考えてみればこれは変な話しだ。この国では働いている人は皆病気もせず、介護や子育てが必要な家庭でも、そういう問題は特殊で考慮するにあたらないと考えているのだろうか。つまり、人間に関して発生するリスクに対して何も考えていないことになる。

しかし、人の命に関わる産業、例えば航空機産業で、パイロットが病気になったら飛行機は飛ばないのだろうか。新幹線の運転手が親の葬式に出たら運休になるのだろうか。それはあり得ない。なぜなら当然にそういうことが起こる前提で労務管理をしているからだ。人の命に関わらないとしても、社会の中のすべての仕事は有用な役割を果たしている。そこに違いはない。ここに大きな発想の転換が必要なのは間違いないと思われるし、またそこに日本社会の進歩の種があるような気がする。

弊社では、大雪が降りそうなときや病気のときには無理して出社するなというのが決まりだ。大雪の中出社しても、出社途中で事故に遭うリスクが高くなるだけだし、病気なのに出社しても逆にリスクを増加させてしまうだけだ。感染症なら他の社員にうつすかもしれないし、本人の病気がひどくなり長期欠勤となるかもしれない。これは事務職だからという特性はあるが、どの業界でもやり方次第だと思う。その時に問題になるのは施設内店舗などの施設側との契約だ。最近ではコンピニがオーナーと営業時間や休みを巡って争っていたが、コンビニの気持ちも分かるが、そもそも当初の契約に書いてあるからといっても、実際に運営を数十年もやっているとオーナーも歳は取るし、雇用状況も変わる。そこをみずに契約一点張りでは共感は得られないと思う。オーナーは零細企業なのだ。すべては時代で変わる。

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中小企業のM&Aの具体的方法


世の中に出てくるあらゆる新サービスは、それなりに世相を反映し、また新技術に基づいているものが多い。もちろん、現れては消えていくわけでどれが本筋になっていくのかは後にならないとわからない。そういう中で、ブロックチェーンや電子マネーや5Gなどの新技術は次世代の技術としてこれからさらに発展していきそうだ。中小企業のM&Aも経営者の高齢化や後継者難を背景にさらに一般化していくだろう。経理についても銀行のネット化を背景として、自動仕訳への取り組みも進んでいきそうだ。

中小企業のM&Aの特徴はネットである。売上高が10億円以上の企業のM&Aは手数料が数千万という世界で、デューデリ(買収監査)の金額もすぐに数百万~一千万円と高額だ。数百万円から数千万円で譲渡される中小企業にとってはそんな金額はとても払えない。そこでネットの活用となる。バトンズやトランビがその代表だ。

中堅企業から大企業のM&Aは、そのほとんどが株式譲渡である。組織として出来上がっているし、帳簿もちゃんとしている。こういう企業で逆に事業譲渡をするとしたら、数百人の社員とまず再雇用契約を交わすだけでも大変な作業となる。

一方、中小企業の場合はほとんど組織として機能していない場合が多い。決算書の内容もそのまま信用は出来ない。残業手当や退職金などの簿外の負債や、回収できない売掛金、売れない在庫などもあるかもしれない。つまりそのまま会社を引き継ぐことはすごくリスクがあることになる。許認可などが継続しないという問題もあるが、意外に新しく取り直すこともできる許認可も多い。従って、中小企業の場合は、継続に本当に必要なものだけを引き継ぐ事業譲渡が多く使われることになる。又、社員は再雇用となり、前会社の未払い残業代や退職金の問題も発生しない。こんな楽なことはない。デューデリも簡単だ。あるものをあるかどうか確認するのは出来るが、簿外負債などのあるかないかわからないものを確認するのは至難の業だ。それをする必要もない。

赤字で純資産がマイナスの会社や、経営者が一人で回している会社が売りに出るが、それらの会社は売るのが難しい。買う方の立場で買いたいと思う会社を普段から作っていくことが必要だ。経営計画をきちっと作って、自分のやりたいことがやれ、歳をとってリタイアしたいときにも魅力のある会社を作っていく考え方をもたないと自分が後で後悔することになる。

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