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自分を活かすには


バトンズの5回目の勉強会に出席した。中でも石川県出身の宮竹秀太郎氏の話しがおもしろかった。宮竹氏はもと会計事務所の職員で、M&A担当でもあったらしい。売上数百億の企業のM&Aの受注で日本M&Aセンターの三宅社長とバッティングしてしまったらしい。スーパー営業マンでもある三宅氏とまともに闘ってかてるはずがないと普通なら引いてしまうところだが、彼はこう考えた「三宅さんは超忙しい。この交渉にそう時間はさけない。」そこで彼は毎日通うことにした。その結果交渉権を獲得した。この業績とやり方により、彼は引き抜かれ、今バトンズのアドバイザーをしている。ステージが上がったのだ。

あるテレビ番組で玉の輿にのる女性と乗れない女性は何が違うのか調べたことがあった。その結論は、玉の輿に乗る女性は長期的にものを考えているということだった。結婚は結婚すると言うことが目的ではない。結婚した後に一緒に楽しく人生を築いていけるのかがポイントだが、意外と多くの男女が結婚という入り口を目的にしている。実は子育て、仕事、介護、お金に対しても日本人は考え方のすりあわせをしていないことが多い。これでは互いに不満足な結果になる確立は高い。就職と結婚は似ているので、一流企業と言われる会社に就職することも同様である。入ることは目的でなく、入社後どう企業と社会の役に立っていくのかということがポイントになる。従ってバブルの時に入社した社員が、入社後研鑽をつまないと後でお荷物になっていくのはある意味当たり前だ。

人の才能は特殊な仕事ではなく、普通の仕事において表われる。目の前の仕事をどうさばくのか?言われたことを言われたままにするとしても、相手がいる場合にはいろいろな障害が発生する。障害が起これば対応力が試される。上司から怒られるときちんと実行して、怒られないとやろうとしない社員は多いが、それでは、自分自身で仕事にプレッシャーを持ち込んでいるようなものだ。現実そういう社員は多いので、今でも頭から叱り上げるという恐怖の時間が会社に存在するのだ。

優秀な人だから対応できるのだという誤解もある。どんな仕事であれかならず改善点はあるし、普通することでもちゃんとしていないことも多い。秀吉は気配りの人だったと言うが、その気配りはすごい気配りではなく、誰でもできる細やかな気配りだったという。有名なのは秀吉の城の水攻めだが、この人を殺さないやり方が、後で天下をとることにつながったという話もある。つまり恨みをかわなかったのだ。秀吉は偉いな。

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ポツンと一軒家


「ポツンと一軒家」という番組が人気だ。特に中高年に人気が高い。一人を楽しむという考えもあるが、最近は本人ではなく周りの人が一人でいると可哀想だの、孤独でいることはよくないと考える傾向がある。本人の考えによるアプローチではなく、周囲の人の考えるアプローチである。特に老人を一人の大人でなく社会的弱者と考え、無理に施設に連れ出そうとして、それが良いことだと放送している番組もある。連れ出される老人は、周りの人が一生懸命なので合わせてくれている感じもしないではない。老人の難しさは人によって全く違うと言うことである。同じ事をしても人によって良い悪いと逆の結果が出る場合がある。又、世の中もまだ老人社会の経験が足りないと言うこともある。海外では、ソローの森の生活など一人で森の中で暮らすことの素晴らしさを書いた本も多い。

「ポツンと一軒家」は、山の中に一人、又は夫婦・親子で住んでいる人を訪ねていく番組だが、そこでは誰も他の家とすごく離れているのに、一人で住んでいて寂しいとか、嫌だとかは言わない。都会の煩わしさを離れて逆に皆それなりに幸せそうだ。本人の選択による人生を送っているのだ。森の中にいることも、周りに誰もいないことも、それらはマイナス要因ではないことを自ら証明しているのである。

現代社会は、SNSですぐ意見が言えることも影響しているだろうが、ある意味おせっかい社会である。間違ったお節介も多い.間違った情報を信じて違う人を罵倒する例もよく聞く。SNSが使えず、非効率で不便なところでも人は楽しく生きることができるのだ。世界には電気・ガス・水道が今でもないところも多い。しかし、住んでいる人は明るく親切だ。もちろんそういう生活に戻れないだろうが、それゆえ都会に住んでいる私たちは、水は沢の水を使い、ガスは薪を使い、電気は「ポツンと一軒家」に住んでいる人のそれぞれの人生に魅力を感じるのだ.

考えて見ると「ポツンと一軒家」は近くの集落の人は知っているが、干渉は少ない。周りを気にしないで生活できる。落としどころが丁度良いので魅力を感じるのかもしれない。ただ問題点はある。それは効率という観点から見た問題だ。つまりその維持に市町村の負担がかかるという点だ。その「ポツンと一軒家」のために道路の維持など経費がかかるのだ。アメリカでは、住む都市と遊ぶ近郊の自然のエリアは明確に分けられている。街もコンパクトシティといい歩きやすい街作りをしている。個人の選択と税の使い道をどうすればいいのか課題は多い。

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旅について


無性に旅に出たくなるときがある。「旅行」ではない。「旅」である。旅行の目的はリフレッシュだ。今のいわゆるツアーである。これに対し、旅の目的は成長である。今の自分からもう一つ上に上がりたい時に旅をする。アドベンチャーでチャレンジングである。

こういう視点から日本で旅をした著名人というと、まず松尾芭蕉が思い浮かぶ。平均寿命が30代という江戸時代に46歳の芭蕉は深川から東北の松島、平泉(この時読んだ句が「夏草や兵どもが夢の跡」という句だ。)を通り、新潟県の象潟まで足を伸ばし、金沢を経由して岐阜の大垣まで5ヶ月超の旅を弟子の曽良と二人でしている。その時書いた紀行文が「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」で有名な紀行文奥の細道だ。まさしく新たな境地を開拓している.この旅が芭蕉の名声を確立した。

もう一人思い浮かぶのが、同じ俳人である種田山頭火だ。「分け入っても分け入っても青い山」など全国行脚の時に詠んだ句も多い。俳人は旅という環境に置かれると良い句を詠むようだ。彼も45歳から旅にでているが彼の旅は自分を見つける旅であったと思われる。彼も芭蕉と同じくこの旅を通じて自分の作風を確立している。

経営者も旅を通じて新しいやり方を見つける人も多い。旅の非日常性がそうさせるのであろう。そういえば最近定年を迎えた夫婦が学生時代に行った場所や、行きたかったけど行けなかった場所に出かけている話しを良く聞く。そういう団体でない旅は良い旅になる確立が高いような気がする。

旅には目的のある旅と目的のない旅がある。目的のある旅としては、湯布院の玉の湯、亀の井別荘の溝口薫平と中谷健太郎氏が中心となり50日間の欧州旅行へ出かけた。それが湯布院を日本一の観光地へしたのである。

海外に旅行すると外国人が家族で友人で一緒に長期旅行をしているのに出会う。テレビでも「YOUは何しに日本へ」という番組で訪日している外国人の休暇の長さにびっくりする。日本もいつになったら旅先進国になれるのだろう。特に未来を造る若い世代が仕事に追われて旅にでないことには不安を覚える。旅は遊びではない.旅は人生を振り返り、人生に価値を付加するものと考えるがどうだろうか?

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成長なき組織


近代社会の共通の価値観を一つ上げよというと「成長」になる。近代社会は、競争による成長という視点で発展を続けてきた。個人においても、組織においても成長がないとどうなるのか考えてみよう。

まず個人において成長がないということはどういうことなのか。新人として入社してきて、10年後も新人と同じことしかできない社員はほぼいない。ところが入社して20年以上経つとまったく成長しているどころか逆に退歩しているような社員が見受けられる。これはなぜなのか?

一つには体力があるかもしれない。40前後から体力は確実に落ちていく。しかし、一番大きな要因は新しい仕事へのチャレンジ意欲が減退することではないだろうか。新入社員の時はすべての業務がチャレンジである。しかし、中堅になると、その慣れ親しんだ仕事を続けることで未来があるような都合の良い仕事への解釈がそのチャレンジの必要性を認めさせていない。大変だからだ。

しかし、個人の都合とは別に社会は確実に変化していき、必要な仕事も仕事の価値も変化していく。個人のチャレンジによる成長のない未来は、確実に個人の価値を損なっていく。

そういう個人が多くを占める会社という組織も同様の結果となる。継続する組織というものは、名は同じだが、していることはどんどん変化対応している組織である。長寿番組や長寿企業は皆そういう点では同じである。しかし、日本という国は、青年の就職したい職業の上位を公務員や大企業が占める。もちろん公務員という職業が悪いわけではない。必要な職業である。ただし、その志望動機が公務員になって社会の役に立ちたいではなく、安定しているからということが問題なのだ。大企業も同じような理由の学生が多い。

2019年6月に先進国の「業務自動化率」を調査したら、日本は12か国で最下位であった。その理由は「変化への恐れ」だそうである。明治に入って、西欧の進んだ文化を受け入れ、この国は発展してきた。しかし、今第二の明治維新が必要なのかもしれない。それほど成長は必要なことなのだ。今の社員と中小企業は明治で言うとちょんまげで刀を下げて歩いているのかもしれない。

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会議での発言バランス


会議を運営していてしばしば感じることがある。それは発言のアンバランスだ。例えば今期の目標はこれこれですと会社が決める。それに対してどのように発言するのが良いのだろうか?

例えばこれこれして欲しいと発言するとする、しかしその前の言葉が抜けている。この言葉の前に、「私は、会社の目標達成のために**します。そのために**して欲しい」と自分の働きを表明しなければならない。なぜなら、どんな企業でもあれがない、これがない。もっとこうして欲しいなど批判すれば材料はいくらでもある。批判ばかりする人間は結果「野党」なのだ。いうだけでしない。そういう社員が良い成績を上げているのをみることはない。成績を上げる人間は、他の社員やトップの批判より自分自身を批判し、その反省に立って実行計画を立てて表明する。つまり自分に視点が向いている。

以前報酬規程をきちっとつくってくれと言われたことがある。しかし、それまで時間をかけて規定を作ったものに対しては何の実行もしない。そうすれば、また作っても何もしないかもと疑心暗鬼になり、様子を見てあるレベルまで実行できてからと考えてしまう。結局ルールで固めないと動かない社員がそこにいる。いや固めても動かないのかもしれない。

会社の仕事のバランスはしんどいところと無駄にきつくないところ、前に進むところと変えないところ、ベテラン社員と若手社員など相反するもののバランスが良いと会社が元気になっていく気がする。

会議のバランスも本人がどうやるか、その実行のために他人の協力を得られるかというバランスが必要だ。他人の批判ばかりする社員、本人の努力が全く見えない社員とは、一緒に仕事をしたくないと感じることも多い。

ほんとうに良い会社を作ることは難しい。どういう会社を経営者は良い会社と考え、その考えに賛同する社員を広く集めていくか、ホリエモンのように、社員はいらない。すべて外注で対応するという考えも一理ある。外注費で支払えばその仕様書のとおりに実行される。給料で払えば、社員の成長費用を支払いながら裏切られる。さてどうしたものか?

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年齢による限界


今、経営者の年齢の山が66歳になったといって中小企業庁も承継に必死になっている。一般論としてはもちろんその通りだ。しかし、よく考えてみるとおかしな話でもある。今の日本の経済を60歳代後半を超す経営者が実際は支えているという実態もそこに見えるのだ。

ここで一つ疑問が生じる。日本人の平均寿命と同じで政府は過去の常識に従って経営者の交代を進めているのではないのかということである。江戸時代の偉人に伊能忠敬という人がいた。平均寿命が30歳から40歳(子供の死亡率が高かったため)と推定される時代だ。将軍でさえ平均寿命は51歳と言われていた。そんな時代に彼は50歳過ぎて家督を譲り、56歳から20年弱の年月をかけて日本全体を測量した。今で言うと80歳のおじいさんが誰もなしえなかったすごいことをしたことになる。彼がもし歳だからと何もしなかったらどうなったのだろうか。

私がいつも感じるのはこの国はこの時代になっても「お代官様」の国で、今の働き方改革にせよ、事業の承継にせよ国が企業に働きかけることによりしか前に進めないのかという疑問である。もちろん、それも必要なことであろう。データでは最近は倒産より廃業の件数が数倍もあるというのは事実である。しかし、もう一つの視点がある。起業が少ないという日本の特徴である。廃業も多く、同じように起業も多ければ、それはそれとして問題はない。リスクをとらない、又は取りにくいという実態がそこには浮かび上がる。

「いつまで仕事ができるのか」これは本当に人による。経営者というより幹部がしっかりしていれば、経営者は死ぬまでやれる。経営者自身が働かないといけない組織なら、本人の仕事の限界がイコール引退の時になるが、問題はそれまでの交代できる準備期間が必要なことだ。ソフトバンクの孫さんも引退の時期をイメージしていた年齢から変更した。自分のことは自分で決める以外にない。そして引退後は伊能忠敬のように本当にしたいことをすればよいと思うのだがどうだろうか?実際にカレーハウスCOCO一番屋の宗次徳二創業者は、実権は後進にゆずり、特別顧問という名称だが、まったく会社にはいかず、自分で新しく小さな会社を作ってやりたいことをやっている。国も今度は齢を取ったら皆働くなといっているわけではない。老年者はすごく多様性に生きているのだ。

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先入観


人は先入観の奴隷であるという見方がある。別の言い方をすると「人は経験の奴隷である。」とも言える。この経験には実際に本人がした経験も含まれるが、また自分では経験していないが、上司が言っていた、親が言っていたなどの間接的なものも含まれる。実際はこの間接部分の方が多くをしめるだろう。

私の父親は満州からの引き揚げ者だったが、戦争によりすべての財産を剥奪されたため、日本に帰ってきてから数十年経っても土地や家は最低限で良い.何があるかわからないからという考え方でずっとやっていた。私から見ると日本が占領していた満州と日本国内では全く違うだろうと思うが、本人は頑として受け付けなかった。理屈ではなく、強烈な体験により本人の血肉になってしまっているのだろう。これは変えることが出来ない。同じ理由でロシア人も死ぬまで嫌いだった。ロシアが入ってきて、金・酒そして女と要求してきたらしい。また、本人も殺されかけた経験があったと聞いている。

企業経営においてもこの先入観が大きく左右する。昔保険で損をしたからもうしない。同じく株で損をしたから2度としない。社員に裏切られたからもう信用しないなどさまざまなところに先入観が見え隠れする。例えば変額保険という商品がある。東京など都会では売れているが、地方では売れない。その理由はちゃんと勉強しているかどうかだ。地方では内容を聞かずにただ儲かるからといって買って損をすると、変額保険=損という図式がインプットされ、頭から除かれる。

コンサルタントの利用も同じだ.結局コンサルタントは経営者のサポートなのだが、他の経営者が利用して良かったというと利用し、その結果が悪ければコンサルタントはだめだとなる。本当はその知識などを経営者本人が理解し上手に利用していかないと結果はでないのだ。

しかしこの先入観は取り除くことは至難の業だ。誰にでも先入観はあるからだ。ただ一つのとらわれないやり方は、自分にも先入観があるということを理解することしかない。15世紀半ばから17世紀まで続いた大航海時代の発端は、私たちは世界のことを何も知らないと考えたヨーロッパ人によって始められた。自分は何も知らないということが好奇心という大きな知となって、世界を変えてしまったのである。経営においても私たちは何も知らない。従って大いに学ぶべきだと考えると企業の大航海時代がスタートするかもしれない。現代は新しいスキル、知恵に満ちているのだ。

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時代をワクワク生きる


皆さんは今生きている時代を意識したことはあるだろうか。私はいつも意識している。新しい時代の新しい仕事に参加できれば自分が持っている能力がより役に立つかもしれない。常にそういう意識で仕事に接している。そのため多くの仕事を経験することになる。その結果、仕事にワクワク感を持っている。事業計画、ISO9001(品質)ISO14001(環境)のコンサル、生損保、リスクコンサル、人事コンサル、M&Aコンサル、幹部教育、相続コンサル、終活コンサルなど多岐にわたる。そして世の中には天才と呼べるような人も東京に行くと散見され、そういう人と一緒に話したり、飲めたりを楽しんでいる。

しかし、大分で多くの経営者と話をしても、固いと言えば固いが、時代に合わせて根本的にやり方を変えようとする経営者は少ないと感じる。食べるための経営・労働は苦しい。仕事をワクワク楽しくできることは人生の楽しみになる。

会社の業務内容はそれぞれに異なる。何が共通の価値なのか?脱皮するために共通のスキルはあるのか。松下幸之助氏、稲盛和夫氏、海外ではピータードラッカーなどが述べる言葉が今でも多くの経営者に受け入れられるのは、そこに普遍的な解答がかかれているからである。例えば有名な「未来を語る前に、今の現実を知らなければならない。現実からしかスタートできないからである」という名言があるが、これに反論する経営者はいないだろう。

またドラッカーはマネジメントの中で次のようにも言っている。「企業の目的は顧客の創造である。したがって企業は二つの、ただ二つだけの企業家的な機能を持つ。それがマーケティングとイノベーションである。マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす」。マーケティングとは市場を理解し、顧客のニーズを満たす行動をいい、イノベーションとはマーケティングに基づき新しい価値を創造する活動をいう。

さて中小企業がこのようなドラッカーの提言を受け入れるのには何が必要であろうか。私はスタートとしては「事業計画」だと考える。自分の会社の又は事業の将来を現時点の経営内容から考えていくのは事業計画しかない。考えることの価値をあまり深く考えずに、赤字にもかかわらず前年のやり方を踏襲していく経営者にすすめて33年経つが、やれば変わるのにと思うことが多い。

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協力する意味


「ホモサピエンス全史」という本を読んだ。ユヴァル・ノア・ハラリという名前のイスラエル人歴史学者が著者だ。全世界で500万部突破していて、実に刺激的な作品だ。

実は人類といっても過去16種ほど存在しており、今後も研究により増える可能性は大らしい。しかし、およそ700万年前にアフリカに誕生した人類で、今この地球に存在するのはホモサピエンス(ホモ属のサピエンス(賢い人という意味))ただ1種類だ。今後新しい種が生まれるのではという想定からXメンのような映画が作られている。

私たちのホモサピエンスは他の動物や他の種族に較べると筋力など弱かったが、一つの能力があった。それは大勢で柔軟に協力するということができることだ。アリやミツバチも大勢で一緒に働けるが、彼らのやり方は融通が利かず、近親者としかうまくやれない。オオカミやチンパンジーはアリよりもはるかに柔軟に力を合わせるが、少数のごく親密な個体とでないとダメだ.ところがサピエンスは無数の他人と柔軟な形で協力できる。この能力により、サピエンスは屈強なネアンデルタール人を絶滅に追いやり、世界を支配した.それによりアリは私達の残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められている。

それならばなぜホモサピエンスはなぜ他人と協力できるのか。それは7万年前から3万年前にかけて見られた「認知革命」といわれる新しい思考と意思疎通の方法の登場にあるといわれている。ただその原因はわからない。突然変異かもしれない。その新しいホモサピエンスの言語は他の動物や種族の言語と違い、恐ろしく柔軟で、周りの世界について情報を共有する手段として発達したという説がある。つまり私たちの言語は噂話のために発達したのだ。この説によるとホモサピエンスは本来、社会的な動物であるということになる。私たちにとって社会的な協力は、生存と繁殖の鍵を握っている。

個々の人間がライオンやバイソンの居場所を知っているだけでは十分ではない。集団の中で、誰が誰を憎んでいるか、誰が正直か、誰がずるをするかを知ることの方がはるかに重要なのだ。誰が信用できるかについての確かな情報があれば、小さな集団は大きな集団へと拡張でき、より緊密で精緻な種類の協力関係が築けるのだ。企業で考えて見ると企業は協力の場であることが大原則、協力をしない者は生き残ることができないのだ。皆が協力すればより大きな組織になれるのだ。この場合の共通の価値は「経営理念」しかないのだ。

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M&Aという新しい手法


新しいものやサービスがでたときには必ずネガティブな意見がでる。今は当たり前になった車のオートマも最初は「危ないからやめた方がいいよ。たくさんの車が勝手に動くから前の車にぶつかっているらしいよ」と言われた。しかも運転免許を持っていない人にだ。M&A(企業の合併と買収)も同じだった.日本の企業がまだ経験したことがないものだったので、当初「会社を食い物にされる」などいろんな話しが出た。こういうときは経験者の話が一番有用だ。

M&Aは大手金融機関などが薦める大型の案件からスタートし、日本M&Aセンターの創業により中小企業(中心は中堅企業)に浸透しはじめ、日本M&Aセンターから分社した現バトンズ(2019年4月~)が、中小企業の中でも売上の少ない小・零細企業のM&A事業を始めた。すでに3万件を迫る登録件数を持っている。

M&Aというサービスは大きな可能性を持っている。特にこれから約3分の2が後継者のいない中小企業を救う大きなスキームになるし、最近の労働者不足(毎年約30万人就労人口が減っている。中小企業まで人が行き渡らない。)の解消にも一役買えることも分かってきた。また後継者対策としての有効性が強調されるが、実は企業の成長のためのサービスと捉えて実行している企業も多い。国も事業承継のやり方としてM&Aを認めている。

いろいろな話題を振りまくライザップも瀬戸健社長が健康コーポレーションという会社を起業運営しているときにM&Aで取得した会社だ。今の若い人はM&Aに抵抗が少ない。限られた時間の中で立ち上げの時間を大幅に省略できる。設立、登記、採用、営業、顧客、仕入れ先、経理、運営すべてが出来上がっている。

又、これまで事業の運営・拡大等に頑張ってきた経営者にとっても、自分の引退後の従業員の雇用、借入金の返済(個人保証している)、老後の必要資金の確保などから、やめるにやめられずといった状況で、健康を害して初めて会社の清算をする人も多い。2018年は廃業が倒産の3倍以上に達している。M&Aという手法を知っていれば、多くの企業の雇用・取引先が守られたのにと残念でならない。情報社会といわれて久しいが、今でも都会と田舎、若者と高齢者、男性と女性の間での情報格差は残念だがある。新しいスキームをどう受け入れていくか、経営戦略に情報をどう入れるかによりこれからは会社の経営が変わっていく。

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